仕事のススメ。

佐藤亜紀女史が坂東猫殺しについて追加コメントをされている。それについて、ちょっと所感を述べてみる。

http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/09/200693.html

彼女のブログを読むと、相当ファナティックだけどそれも仕方ないかと思う。ほんとに猫好きなのだ。それも実践する猫好きだ。ほとんど猫観音。そういう人間の前で、猫にセックスと出産を存分に体験させてあげるために仔猫は崖から捨ててます、セックスと出産はなにより尊いですから、と公言したらどういうことになるか――それも、私は文明の偽善を告発していますと言わんばかりの様子で公言したらどうなるかは自ずと明らかだ。酒の席なら言った途端に頭からビールをぶっ掛けられている。瓶でぶん殴られなければもっけの幸いだ。で、ここからが大事なところだが。

それでビール瓶で頭殴られて全治三週間なんてことに絶対にならない、と考えているとしたら、その方がよほど文明の偽善なのである。

酒の席というプライベートな場で、そうしたファナティックな人物が同席していることを知りながら、そういう話を振る者はまずいない。いるとしたら、流血沙汰になるのを覚悟の上で、その人物にちょっかいを出したいという場合などに限られるだろう。しかし、そうしたプライベートな場でなくても、新聞記事を読んだだけで、記者がわからないなら新聞社を、わかるのであればその記者を「ぶっ殺してやる」という勢いで襲撃する者があり得ないわけではない。

言論の自由については随分と腑抜けた認識が横行している。何を言ってもウェブの画面一枚、活字を刷った新聞紙一枚が挟まっていたら、誰も自分に指一本触れられないと思い込んでいる奴が多すぎるのである。ある種の事柄に不器用に触れたら火だるまは必至だ。襲撃されることも、家に火を付けられることもある。法的には名誉棄損であり、傷害であり殺人であり、放火である訳だが、それでも構わんからやる、という奴は必ずおり、ある筈のないこと、あってはならないことだとどれほど言い募っても、この世からそうした人間の存在を消すことは出来ない。

正にその通りである。同様に、坂東眞砂子女史の猫殺しが法に触れたとしても(本件に関してフランス法を調べるつもりがないので本当に触れるかどうかは知らない)、それでも構わんから殺すというのが坂東眞砂子女史なのである。法律が抑止力として働いていないケースで法律を持ち出して彼女を批判しても意味がない。例えば、死刑覚悟の連続殺人犯がいたとして、仮に警察もなかなか動いてくれないとした場合にどうするかですよ。Webで警察叩きをして盛り上がるんでしょうか。まぁ、はるか遠方での話ならば自分には関係ないとばかりにそういう態度を決め込めるだろうし、その連続殺人犯の写真をアップするなどしてそれを揶揄したり、その連続殺人犯の言っていることがおかしければ、それを論ってお祭り騒ぎになることも考えられます。しかし、自分の住んでいる街にその連続殺人犯が潜伏しているとすればどうか。まぁ、相変わらずその手の騒ぎに参加し続けることも考えられなくはないですが、それだけではなく自分や身内が殺されないように何らかの対策を打つのではないかと。

猫を殺してもいいということではないわけです。事の善悪判断は関係ないのです。それをする者が現にいるという場合にどうするのかと。それで「私にはどうにもできないから、誰か何とかしてくれ」と言うだけに止まるのであれば、それは愛猫家の言葉であるのかなと疑問に思うのです、私は。

猫の命と人間の命の間に線引きしたがった揚句、猫なんか幾ら殺してもOKだって人間じゃないから昔は幾らでも殺した猫殺すなとか言う猫好きはビョーキ、とか口とんがらせて嘯く奴――あんたね、そんなの一緒なんだよ。なるほど仔猫はこの間まで間引かれまくっていたかもしれないが、それを言うなら人間の子だって間引かれまくっていた。猫の命も軽いが、人間の命だって劣らず軽い。時々、こいつか猫かと言ったら猫を取るね、と考えたくなる奴もいる。その上で、私は訊きたい――猫の命だって人間に劣らず大切だと何故言えないのか

何故言えないかと言えば、私は愛猫家ではないからです。また、例えば、私は猫を飼う趣味はないので、飼い犬ということで考えた場合に、自分の飼い犬と縁も所縁もない赤の他人とどちらの命を優先するかと言われたら、迷うことなく前者です。ですが、その赤の他人のファナティックな犬好きだというわけではない身内からすれば、これも迷うことなく後者なのではないか。斯くの如く優先順位というのは人によって違うわけです。にもかかわらず、自分のそのヒエラルキーを一般化して他人をそれに従わせようとする態度がファシズムだとか全体主義だとか言われているのですね。

(それを言うなら食肉牛の命だってゴキブリの命だって同様に大切である。食うし、叩き殺すけど、罪なしとは言えない。猫の間引きも同様だ)。

とは思っていないのです、本当は。食ってはならない、叩き殺してはならないとは思っていない。命あるものだからということでそうしないわけではないから。対象者に身内意識、同胞意識を持つかどうか。猫好きであれば、猫を殺したり猫を煮て食べたりするという話を聞けば、大変悪趣味なことだと思うでしょう。そのとき、猫好きは猫に身内意識(格別の執着)を持っているからそう思うのです。しかし全く持たない人もいる。それを異常なことだとして、単に排除し抹殺して事足れりとすることに異議を唱えているのですね、ファシズムだとか全体主義だとか言う人は。これは逆も同様です。猫好きな人に猫殺しを悪趣味なことだと思うな言うなと強いることも、先の事がファシズムだとか全体主義だとかと言われうるのであれば同様に言われ得ます。エゴをゴリ押しすれば全体主義です。ですが、エゴのconflictを徹底して避ければ、対話が無くなる。

「あらゆる殺生を禁忌とする」という命題を建前では受け容れつつも本音では受け容れていないから矛盾が生じる。他者のエゴを排すことなく、自らのエゴを現に通すために、ではどういうシステムが望ましいのか、そのシステムを実際に構築するために自分は何をするのか何をすべきなのか何が出来るのかということが問題です。その仕事に参与しないのであれば、何を言おうとそれらはすべて愚痴や与太話、タナボタ待望論に過ぎません。

自分の仕事を他人に丸投げする輩が多すぎるのですね。

補足。

仕事しない人がいてもいいんですけどね。いや、よくはないのですが、そういう人が実在してしまうのは仕方がないし、そういう人を排除するようなことをいくら書き綴ろうが、そういう人は実在してしまうのです。で、現に実在するのなら、そういう人達は自らをいちいち正当化する必要は無い。実在している以上は実在が許されているということであるのだから。