パターソン(2016)

製作国:アメリ
監督:ジム・ジャームッシュ
脚本:ジム・ジャームッシュ
音楽:スクワール
出演:アダム・ドライバー/ゴルシフテ・ファラハニ/バリー・シャバカ・ヘンリー/永瀬正敏 他
★★★★☆


「見えない人々」の「見えない幸福」

このブログを読んでいただいている方はご存知のことと思いますが、僕はツイッターもやっており、たまにハッシュタグで出されたお題に応える形で投稿したりもしています。先日も「#全くインスタ映えしない風景写真選手権」というタグに惹かれるものを感じ、知る人ぞ知るある建物の画像を貼ったんですが、(自分としては)まあまあの反応を得てニヤニヤしたりしました。
でも、よく考えたら「インスタ映え」のするおシャレな写真を撮ろうとしていろいろと画策する人々と、ハッシュタグのお題にきれいにハマって、しかもウケたいと考えて必死になって画像フォルダを掘る僕と、第三者から見たらあまり変わらないのではないか、というか同じですよね。要するに己の内なる「承認欲求」というやつを満たしたいという一点においては。
更に掘り下げて考えてみると、そもそも何故僕は他人に「ウケたい」のか? つまり「承認欲求」は何故湧いてくるのか? という根本的な疑問が浮上してきました。ツイッターにしてもブログにしても、いくら書いても一銭にもならないのに、何故だかわからないけれど、他人から評価されるとうれしいからやっている。自分のことながら不思議です。
こんなことを考えたのも『パターソン』の主人公であるパターソン(アダム・ドライバー)が、僕とは全く真逆な人間だからです。バスの運転手である彼は、仕事の合間や、日常生活の中のちょっとした時間を見つけては、いつも持ち歩いているノートに詩をしたためています。そのことを知っているのは彼の妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)だけらしく、どうも彼女はパターソンに自分の詩をどこかで発表するべきだと以前からしきりに勧めてきたようです(彼女が「ノートのコピーを必ずとってね」と劇中で度々言うのは、たぶんそれを出版社に送ろうと思っていたからではないでしょうか)。
しかしパターソン自身には、見るからにそんな気が全く無さそうなんですね。毎日せっせと詩を書き続けるけれど、それを誰かに読ませたいとはこれっぽっちも考えていない、とはセリフでは語られないんですが、態度を見ればわかる。でも、何故彼が、ひたすら自分のためだけに詩を書き続けるのか、その理由ははっきりとは説明されません。要するにそれで十分に満足しているから、というのが強いて言えばその理由なのかもしれません。
まあ、もし僕だったら(そんなものがあるのかどうかは知りませんが)詩の投稿サイトに試しにアップしてみたり、ツイッターでつぶやいてみたりするでしょうね。しかしパターソンはネットにも興味がないようです。スマホを持つことさえやんわりと拒否しているくらいですし、たとえスマホを持ってもSNSは絶対にやらないんじゃないでしょうか。
こんな彼のような、まるで「承認欲求」など生まれてこの方持ったことなど一度もないとでもいわんばかりの人は、たぶん現実にも存在しているんだろうとは思うんですが、これは絶対に推測の域を出ない話なんですよ。何故ならそういう人々が自分の作品(詩・小説・絵画・写真・音楽などなど)を発表しない以上、存在を証明できないからです。このような、いわば「見えない人々」は、僕や「インスタ映え」に翻弄される人々には決して味わうことのできない種類の、まさにパターソンが求めているのと同じタイプの幸福を追求し、享受しているんだろうなと思うと、少々羨ましい感じもあります。そんなことを考えさせられました。