キクラデス諸島の歴史:2 幾何学文様時代、アルカイック時代、古典時代 2.1〜2.3

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

2 幾何学文様時代、アルカイック時代、古典時代
2.1 イオニア人の到来
 イオニア人はBC 10世紀頃に大陸から来て、約3世紀後にデロス島に偉大な宗教的聖域を設立した。アポロンへのホメロスの讃歌は(その最初の部分はBC 7世紀に遡る)イオニア人の礼拝(それは運動競技、歌、舞踊を含む)を示している。考古学的発掘調査は、中期キクラディックに遡る集落の遺跡の上に宗教的中心が建てられていることを示している[33]。
 最初のキクラデスの都市が建設されたのはBC12世紀から8世紀の間であり、そこにはケア島の4つ(イウリス、コリッシア、ピエッサ、カルタイア)とアンドロス島のザゴラが含まれる。ザゴラの家々は考古学者によってBC 850年と年代を推定された壁に囲まれていた[34]。陶磁器は地方生産の多様性を、よって島々での差を示している[35]。したがって、ナクソス島、ドヌッサ島、とりわけアンドロス島はエウボイア島とつながりをもっていたが、一方ミロス島サントリーニ島はドーリス人の影響範囲にあった[36]。
 研究することができた、この時代の最も重要な都市の一つであるザゴラは、そこで見られる伝統的な建物のタイプがBC 9世紀から19世紀にかけてほとんど進化していないことを示している。家屋は、荷役用の動物がより簡単に通ることが出来るように設計された、粘土で覆われた片岩の厚板で作られ角を切った平らな屋根を持っていた[37]。


2.2 新しい最盛期


ロス島にある、ナクソス人のライオン


 BC 8世紀から、キクラデスは大部分がその豊富な自然資源(ミロスとシフノスの黒曜石、シロス産の銀、サントリーニ産の軽石、主にパロス産の大理石)による最盛期を経験した[35]。 この繁栄は、ギリシアの植民活動への島からの参加が、サントリーニ島のキュレネの設立[38]以外に、比較的弱いことからも見ることができる。キクラデスの諸都市は、デルフォイにあるシフノス島の宝庫やナクソス人の柱、ナクソス人がデロス島に提供したライオンのテラスのような、偉大な聖域によってその繁栄を祝った。


2.3 古典時代
 キクラデス諸都市の富はこのようにしてその隣人の興味をひいた。デルフォイでのシフノス人の宝庫が建設された少しのちのBC 524年、サモス島からの軍勢がその島を掠奪した[39]。BC 6世紀の終りに、ナクソスの僭主リュグダミスはしばらく他の島々の一部を支配した[39]。
 ペルシア人はBC 5世紀末近く、キクラデス諸島を奪おうとした。ミレトスの僭主で、ヒスティアイオスの甥アリスタルゴスは、ナクソスとの戦いでリュディアのサトラップであるアルタプレネスとの遠征を開始した。彼はこの島を確保した後、群島全体を支配することを望んだ。その途中、アリスタルゴスは提督のメガバテスと喧嘩し、メガバテスは軍隊を裏切ってナクソスに艦隊の接近を知らせた。ペルシア人イオニアの反乱のために一時的にキクラデス諸島への野心を放棄した[40]。


2.3.1 ペルシア戦争
 ダリウスがギリシアに対して遠征を開始したとき、彼はダティスとアルタプレネスにキクラデス諸島を取るよう命じた[40]。彼らはナクソス島を破壊した[39]。デロス島は宗教上の理由から除外されたが、一方、シフノス島、セリフォス島、ミロス島服従して人質を差し出すことを選んだ。こうして、島々はペルシアに服従した。マラトンの後、ミルティアデスは群島を再征服するために出発したが、パロスの手前で彼は失敗した[40]。島民はペルシア艦隊に67隻の船隊を提供したが[41]、サラミス戦争の前夜には(ナクソス、ケア、キトノス、セリフォス、シフノス、ミロスからの)キクラデスの船が6、7隻 ギリシア側についた。こうして、島々はデルフォイで奉献された三脚にその名を表す権利を獲得した。
 テミストクレスは群島を横切ってペルシア艦隊を追跡したが、同時にペルシアに対して最も妥協した島々を罰しようとした[40]。
 BC 479年、若干のキクラデスの都市(ケア島、ミロス島、ティノス島、ナクソス島、キトノス島の都市)はプラタイアの戦いで他のギリシア人とともにあった。それは、パウサニアスが記述したように、オリンポスのゼウスに捧げられた像の台座によって確認される。


2.3.2 デロス同盟
 ペルシアの脅威が大陸ギリシアの領域から掃討され、戦闘が島々とイオニア小アジア)で起こったとき、キクラデス諸島はギリシアの仇を討ち、ペルシアによる彼らの財産の略奪によって引き起こされた損害を返済する同盟に入った。この同盟はアテナイによって組織され、一般的に第一次デロス同盟と呼ばれている。BC 478年から477年まで、同盟内の都市は船(例えばナクソス)か特に銀の貢納を提供した。徴収する宝の量は400タラントに固定され、それは神聖なデロス島のアポロの聖域に預けられた [43]。
 まもなくアテナイは、同盟国を全面的支配下に置く以前に、それらに向かって権威主義的態度で行動し始めた。ナクソスはBC 469年に反乱を起こし[44]、包囲戦ののちアテナイによって従属国に落とされた最初の同盟都市となった[45]。宝庫はデロス島からアテナイのアクロポリスにBC 454年、移転した[44]。こうしてキクラデス諸島は(インブロス島、レスボス島、スキュロス島と共に)島々の「地区」に入り、アテナイの民会で設定された量の銀の割賦金を除いて、もはや同盟に貢献しなかった。この貢納は、反乱の後、それが罰として増加された時を除いて、あまり負担にならなかった。明らかに、アテネの支配は、時にはクレルキア(=従属植民市)の形を取った(例えばナクソス島とアンドロス島)[44]。
 ペロポネソス戦争の初期、ミロス[46]とサントリーニを除く全てのキクラデス諸島はアテナイに従属していた[47]。それでトゥキュディデスはケア、アンドロス、ティノスからの兵士がシケリア遠征に参加したと書き、これらの島々は「属国」であったと書いた[48]。
 キクラデス諸島はBC 404年まで貢納金を支払った。その後キクラデス諸島は、第二次デロス同盟に入り再びアテナイ支配下に入る前に、相対的な自治期間を経験した。
 クィントス・クルティウス・ルフスによれば、イッソスの戦いののち(あるいはそれと同時に)、ファルナバゾス率いるペルシアの反撃によってアンドロス島とフィフノス島が占領された。