Comments by Dr Marks

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君はトゥリスクという町(シュティトル)を知っているか? 

   

このベルツという町(シュティトル)はトゥリスクより更に南80 km に位置する同様の町である。現在はポーランド国境の町でもある。
トゥリスクTurisk(טריסק)という町はもうない、とも言えるが、あると言うこともできる。実際にウクライナのコーヴェル(Kowel または Kovel)という地方都市の中心から南西に17 km も下れば、今でもトゥリスクはトゥリイスク(Triisk または Triysk)という名前で存在することは存在する。人口は、大雑把な話だが、5,000から10,000だそうだ。人口のほとんどはウクライナ人である。

しかし、1942年の夏、8月の下旬まではユダヤ人の町であった。そのときまでに町を離れ、収容所に入れられたりしなかった者、あるいは収容所に入れられたとしても生き延びた者以外のこの町のユダヤ人は皆殺しにされた。首謀者はもちろんナチスであるが(隊長の階級は少佐、Sonderführerゾンダーフューラー、特務少佐)、ウクライナ民兵のみならずユダヤ人の裏切り者も加担した。その間の事情はこのサイトに詳しい(http://www.turisk.org/index.htm)。

このサイトの主宰者ベンズィオン・ワイナー(Ben-Zion Weiner)氏によれば、その意味ではトゥリスクの町はもうないのだそうだ。今、余は彼と文通しているが、彼は1921年の生まれだ。間もなく90歳になる。彼からの個人的な話によると、1940年の12月にこの町を逃れたために生きながらえたそうである。19歳のときだ。

当時の政治的な事情はこうである。まず、ワイナー氏が少年時代を過ごしていたときまでは、ウクライナはまだポーランドの領域だった。ところが1939年8月に日独不可侵条約が締結される。英語ではTreaty of Non-Aggression between Germany and the Soviet Union というが、西欧ではMolotov-Ribbentrop Pactというほうが通りがいい。その結果ポーランドの領域であるはずのウクライナソ連が進駐してきた。そのためにワイナー氏は逃れたらしい。

しかし、先に述べたように。この町を抹殺したのはソ連ではない。ソ連は日ソ不可侵条約を反故にしたナチス・ドイツに追われ、ウクライナを放棄している。かくして、この町はナチスの管理下に入り、略奪の限りを尽くした後(毛皮没収令、家畜没収令、更に私的な貴金属の略奪など)、人々を町の郊外の採掘場に連れて行き、その穴のところで銃殺した。更に、町に火を放って皆殺しを図る。都会の石造りの家屋のようではなく、木造の家屋が多かった町はひとたまりもなかった。

この町の初めの集落(シュティトル)は1097年であるとロシアの記録にあるそうだ。町の真ん中をトゥリア川(The Turia)が流れているが、この沿岸に大金を共同で払って居住を認められたらしい。エカテリーナ2世の居留地(Pale of Settlement)より、はるかに昔のことである(参照:http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/20100503/p1)。

ところで、何でこんな話をするかというと、実は発端はアイザック・シンガーのある小説にある。ポーランドワルシャワに住むトォリスク派敬虔主義ユダヤ教の老人が出てくるという話だ。うむ、トゥリスクは地名のようだがどこにあるのかと探せども出てこない。ポーランドポーランドでも、昔のポーランドならウクライナまでと思って探しても駄目だった。

そんなときにワイナー氏のサイトを発見したのだが、そこにも、この町は現在どこなのかの手がかりがない。已む無くワイナー氏に直接尋ねたというわけだ。その結果、読者の便宜のために、氏は近々地図をサイトに加えると約束した。余はそれを待たずに諸君に紹介しよう。こちらである→http://www.collinsmaps.com/maps/Ukraine/Volynska-Oblast/Turiysk/P661386.00.aspx。なお、冒頭に述べた近くの地方都市コーヴェルにも大きなユダヤ人社会があったが、トゥリスクと同じ時期に18,000人のユダヤ人が虐殺された。