遅すぎる「正論」

新潟県弁護士会が、裁判員制度の延期を求める総会決議とやらを行った、というニュースが4日付の朝刊で取り上げられていた。


内容を見ると、まず「制度の問題点」として、

(1)世論調査で8割が「裁判員になりたくない」と答え、国民の理解、賛同がない。
(2)「人を裁きたくない」という思想・良心が十分保護されない。
(3)死刑判決に関与することや一生負わされる守秘義務は精神的負担が大きい。
(4)冤罪(えんざい)を生んだり重罰化傾向が助長されたりする恐れがある。

などの点が挙げられており、さらに、

最高裁などは通常3日程度が審理期間をPRしているが、粗雑な司法となり、適正な手続を保障した憲法に反する」

として、

「被告に裁判員が加わった裁判を受けるか否かの選択権を与えるよう提案している」
(以上、日本経済新聞2008年3月4日付朝刊・第38面)

ということである。


いわばこれまで出てきている反対論の集大成のようなもので、至極まっとうなご意見ということができるだろう。


・・・で、こういう意見が法曹界の一翼を担う集団から出てくるというのは業界の健全さの顕れだと思うし、まことに結構なことなのであるが、その一方で、こういう意見が何故今になるまで公式な形で出てこなかったのか、という思いは当然抱かざるを得ない*1


国民に対する世論調査の結果や、辞退事由等の細かい規則等の内容が最近になるまで公表されていなかったのは事実なので、その辺りについては同情すべき余地があるとしても、「被告(人)に選択権がない」という問題は、遅くとも法律が制定された時点でははっきりしていたはずで、初めから問題にされてしかるべき内容だったものといえるはずである。


そうでなくともバイアスのかかった報道を丸のみしてしまう善良な市民が巷にあふれているこの国で、「疑わしきは被告人の利益に」という我が国刑事司法の“美しき理念”が維持されることを期待するのは至難の業であって*2、被告人サイドに事件の中身に応じた選択権を与えることは当然認められて良かったはずだが、現在公表されているルールの中に、それを認めるような規定は一切設けられていない。


正直、裁判員制度の導入に向けて本格的に予算が執行され、あちこちで法廷の改造工事まで始まっている現在、時計の針を逆に回すのはかなり困難な状況だといえるだろう。


そんな状況下であえて反旗を掲げる新潟県弁護士会の“勇気”は買いたいところだが、端的に言ってしまえば、「遅きに失したのではないか」という感も否めないところだ。


各企業で行われている「裁判員制度の説明会」は、ただの儀式に成り下がっているし、(少なくとも仕事をこなすには不自由しないだけの)コミュニケーション能力を持っている職業人が「裁判員役」で加わっている模擬法廷の中ですら、様々な問題点が露呈している*3


合法的に仕事を休めることくらいしかメリットが見いだせない・・・そんな状況だけに、個人的には、いろんなところでもっと多くの声が上がってくれることを期待したいところなのであるが、期待すればするほど肩透かしをくらってしまいそうで、ちょっと空しくなる。

*1:もちろん、以前から、法曹関係者個人や一部の法曹集団レベルで批判の声が上がっていたことは承知しているが、少なくとも「弁護士会」という団体レベルで、制度の延期ないし廃止を正面から提唱したことはなかったのではないかと思う。

*2:今でもそんな理念は机上の空論に過ぎず、実務的には「疑わしきは罰せよ」で回ってるじゃねーか、というご批判も当然予想されるところだが、そういった慣行が成り立つのは、それが多くの市民の素朴な処罰感情に沿っているから、ということもまた事実であろう。裁判員制度がそういった実務にいっそう拍車をかけることはあっても、良識的な学者や人権派の先生方が思うような方向にことが進む方向に作用するとはとても思えない。

*3:世の中には普通に会話しても話が通じない輩は数多いるのであって、そういった人々が抽選で混ざってしまったときのことを考えると、まだ裁判員に選ばれる可能性のある身としては、なんとも気が重い。

外資に行くのは「カネ」のためか?

昔、東大生(特に法学部卒)が官庁に群がっていた時代には、採用する側も目指す側も随分と批判されたものだが、時が流れると批判の矛先も変わってくるものらしい。


日経新聞の1面を飾る「日本人とおカネ」というコーナーで、「東大生は外資を目指す」なるタイトルのコラムが紹介されているのだが、その中に以下のようなくだりがある。

「若者たちのお金観が変わり始めた。エリートの象徴である東大生。彼らのお金観を映す就職動向をみると、かつて多くの学生が目指した中央官庁の人気が落ち、ゴールドマンのような外資系証券、コンサルタント会社に優秀な学生が流れる。」
「『合理的に考える学生にとって、官僚はうまみや働きがいが感じられないようだ。』」
「かつては退職後に天下り先を渡り歩き、大手企業に就職した同期との待遇差を埋め合わせることができた。しかし、今やそんな『うまみ』は期待できない。」
日本経済新聞2008年3月4日付朝刊・第1面)

これだけでも十分突っ込みどころ満載なのだが、さらにトドメを差すが如く、

「だが、彼らは本当に高額報酬に見合うだけの付加価値を提供してきたのだろうか。日本経済の底力は、チームワークや仕事の緻密(ちみつ)さで勝負するモノづくり。けた違いの報酬が、そうした風土を壊しかねないと危惧する向きは多い。」

と畳み掛ける。


エリート層へのやっかみと、外資嫌い保守オヤジ系テイストがミックスされた、思わずため息が出てしまうような内容・・・。


確かに東大生といえども人の子だ。


昔から、出世して金持ちになりたい、という俗物的な野望を抱いていた輩は、(それを表に出していたかどうかはともかく)少なからずいたし、今現在、外資系金融やコンサル、大手渉外事務所の門を叩く学生が増えている背景には、依然としてそういう俗物性が潜んでいることは否定できない。


だが、自分の見立てが間違っていなければ、今も昔もそういう輩は少数派、のはずだ。


妻子や住宅ローンを抱え、世間の垢にまみれ始めた筆者の世代になればまだしも、現役学卒の段階で「カネ」を就職動機に挙げるものは恐ろしく少ない(むしろ露骨な銭ゲバは嫌悪される)、その代わりに、ある者は「地位」や「名誉」を、そして、さらに浮き世離れした人間になると、「働きがい」だの「公益性」だの、を恥ずかしげもなく唱える。それが赤門の向こう側の不思議の国の実情・・・といっても過言ではない。


国家公務員にしても、(金融を除く)大手企業にしても、決して報酬が恵まれているわけではない。にもかかわらず、10年前、20年前に多くの東大生がその門を叩いたのは、そこに少ない報酬の代わりとなるには余りあるだけの「ステータス」や「働きがい」を感じていたからだろう。


そして、ここ数年、上記のような領域へ足を踏み入れる人間が減ってしまったのは、メディアの度重なるバッシングや、政治家や司法の行政領域への侵食によって、そういったものが失われてしまった(逆に、メディアによる外資系崇拝のせいで、あたかもこれらの会社の方が「働きがい」があるかのごときイメージが定着した)から、と考える方が素直だと思う。


世間的な「ステータス」はともかく、本当に後者の方が「働きがい」があるのか、という点については疑問を挟む余地もあるだろうが、少なくとも就職(転職)活動をしている時点においては表面的な情報から内側を推し量るしかない、という点については、東大生だろうが何だろうが変わるものではないのである。


いずれにせよ、単に「カネ」や「うまみ」の問題だけで今起きている現象を分析しようとするのは、あまりに短絡的な思考というべきだし、ましてや、それをもって批判の俎上に載せようとするのは、ピント外れな発想というほかない。


「優秀な学生が採れない」と嘆く人事部担当者諸兄は、外資系企業の高給をやっかむ前に、自分の組織の訴求力が乏しい理由を冷静に分析するべきだし*1、メディアにしても、外資系金融機関に人が流れることを危惧するのであれば、「学生の意識」を批判する前に、自らが垂れ流している、根拠のない米国流礼賛&日本流批判*2を見直す賢明さが必要だろう、というのが、“10年前にはそれなりの人気企業だった(といっても今では誰も信じてくれない)”会社に10年勤めている筆者の率直な感想である。

*1:そうすれば、多くは給料以前の問題としての、体質の古さやイメージの悪さに原因があることに、すぐに気が付くことだろう。

*2:このあたりは日経新聞の専売特許のように見えて、実は朝日、読売あたりの紙面にも(政府批判という文脈を通じて)垣間見える光景である

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html