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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ハンナ・アーレント『人間の条件』

人間の条件
人間の条件
posted with amazlet on 07.04.29
ハンナ アレント Hannah Arendt 志水 速雄
筑摩書房 (1994/10)
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 『革命について』*1に続き、ハンナ・アーレントの著作を読み終える(2冊目)。これでテオドール・アドルノアーレントという二人の思想家を参照しながら、《暴力》について考えることは今尚有効なものだ、という思いをますます強くした。その理由をごく簡単に言ってしまうと、彼らが第二次世界大戦中、ナチズムによって暴力を浴び、幸運にも生き延びた後に、暴力について当事者的に考えようとした人たちだから、というもので終わってしまう。読んでいて涙が出てくるほどの衝撃をくらうぐらい、彼らの著作には受難から生まれてきた切実さを感じる。たとえ、アドルノアーレントの関係が劣悪だったにせよ、二人の著作物の根底には似たような危機感と深刻さがある。
 もちろん、純粋な同化ユダヤ人(変な言い方だけれども)の家庭生まれ、常々ユダヤ人であることを意識しながら生活してきたアーレントと、イタリア系の母を持ち戦争が始まるまでは特に自分がユダヤ人であることを意識していなかったアドルノの境遇を同一化することはできない*2。しかし、前者が「同化していたはずなのに」、後者は「ユダヤ人だと思ってなかったのに」迫害を受けた、と考えるならやはり近いものがある。両者は共に、暗がりで後ろから刺されるようにして暴力を蒙っていたのではないか。
 方法論と参照点、そして態度の違い(印象に過ぎないが、アドルノアーレントよりもずっと愚直であると思う)があれども、上に述べたような理由で私はこの二人の著作を基本的に接続させながら読んでいる。例えば、アドルノのいう「理性による《自然支配》」と、アーレントのいう「近代の《世界疎外》」は似たようなことを言ってたんじゃないかなぁ、とか思う。

この世界疎外という概念こそ、彼女の危機意識の鍵概念であろう。この疎外は近代以降、二つの方向で進行した。第一はデカルト以来、近代哲学は客観的な世界へのリアリティへの懐疑から自分の内部の意識に目を向けるようになり、そこに実在の固い基盤を見いだそうとした。この内省的方法がなにをもたらしたかは別として、それ以来近代人は世界の固いリアリティを失った。第二は近代科学の発展によって、人間は自身が地球拘束的な存在であるにもかかわらず、地球に拘束されない真に宇宙的な立場を確立した。(中略)今日の科学が与えている世界像は世界のリアリティではなく、なにか人間の精神がつくりだしたパターンのようなものにすぎないということである*3

 ここで引用した“第二の方向”に関しては、そのまま道具的理性が自然を支配していく過程と同様に読める(ただ、アドルノはそれをリアリティの消失ではなく、全体主義のステップである《同一化》を生む、と言うのだが)。また、“第一の方向”も内なる自然の理性による支配(内省)そして、支配された内省的な世界がどんどん拡大されていく過程――つまり、自然的な世界が理性よって支配された内省によって覆われていく状態と似ているようにも思う。正直に言うと、アーレントを読むまでアドルノの自然支配がどんなものなのかよくわからないでいたのだが世界疎外と接続されて始めて、クリアなものになってきた気がする(本当にどうでも良いけれど、自然支配と世界疎外って韻を踏んでいる)。アドルノを(何かのテーマと関連して、ではなくアドルノ自体を考えるために)読むとき一緒に読むべきなのはベンヤミンではなく、アーレントなのかもしれない……なんて思ったりもした。
 以上、ここまでアドルノおよび私がアドルノを読んでいる過程などについて興味がない(つまり大部分の)方にはまことにどうでもいい感想を書き連ねてきたけれども、とにかく面白い本である。出版されたのは1958年なのだが、既にアーレントグローバリズムに対して警鐘をならしているようなところがあり、その慧眼に感服せざるを得ないし、ギリシャにおける《労働》と《仕事》の捉えられ方なども歴史的な知識として興味深かった。生まれ変わるならギリシャ人市民を熱望します。服もほぼ裸で、布をまきつけるだけで簡易だし、毎朝「今日は何を着ていこうか……」とクローゼットの前で悩まなくても良いだろうし……。

*1:こちらの感想はhttp://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070301/p2

*2:id:sumita-mさんによれば、Adornoという名前も母親の姓だそうである

*3:『人間の条件』訳者解説より