『夫婦善哉』


 大阪に来たのだから読んでおかねば、と織田作之助の『夫婦善哉』を読んだ。1940年、真珠湾攻撃の前年の作品だ。

 問屋の息子維康柳吉は妻子ある身ながら芸者上がりの蝶子と駆け落ちをする。ボンボン育ちの柳吉は定職にもつかず、蝶子の稼ぎで二人は何とか食いつないでいる。蝶子からもらう小遣いで酒を飲み、いつか店を構えて商売をする日のためにと、コツコツとためた金も廓で使ってしまう。蝶子はそんな柳吉にあきれ、頭を叩いたり馬乗りになって首を絞めたりの折檻をするのだけれども、柳吉は懲りない。蝶子も決して分かれたいと考えたりはしない。「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」健気な女房とダメ亭主、織田作之助の代表作は大阪女のたくましさと、不可思議な夫婦愛を描いた短編だった。

 同じ男性として柳吉には少しも感情移入できなかった。多分この作品が書かれた当時でも決して賛同を得られるキャラクターではなかったことだろう。一方の蝶子についても共感を覚える現代女性は少なかろうが、当時の女性の目にはどう写ったのだろう。昭和の世とはいえ自由民主の教育がなされる以前、どんなダメ亭主でも添い遂げるのが美徳。かくあるべしと考えたのか、馬鹿な女と思うのが普通だったのか・・・。祖母が生きていたら尋ねてみたかった。

 蝶子の稼ぎを元手に、二人は剃刀屋、関東煮屋、果物屋などの商売をする。どれも長続きはしないのだけれど、蝶子はあきらめない。身を粉にして働き、生活を切り詰める。健気だ。

 誰が言い出したのだろうか「負け組」というイヤな言葉。昨今の風潮では一度失敗をすると「負け組」ということになってしまう。巷にはサクセスストーリーも数多くあるけれど、「負け組」となるのを恐れてか、安全安心な道ばかり選ぶのがスタンダードになってしまっている。総中流現代日本中流からこぼれ落ちることへの恐怖が活力を奪い取っているような気がする。皆が貧乏でも、活力があり大らかだった頃に憧れのようなものを感じる。人生というのは何度でもやり直しがきくもの、こんな人生もアリなのだとしみじみ思った。

夫婦善哉 (新潮文庫)
作者: 織田作之助
メーカー/出版社: 新潮社
発売日: 1974/03
ジャンル: 和書