祭りの文化・ネアンデルタール人と日本人81


起源としての日本語は、一音一音の「音声のニュアンス」を抽出しながら生まれ育ってきた。
人々の会話が、ただ単語を交わし合う段階から文節を持った表現へと発展していったとき、日本語の「てにをは」が生まれてきた。
リンゴは赤い。
リンゴになる。
リンゴを見る。
「リンゴは赤い」の「は」も、基本的には「意味」を持った言葉ではなく、「音声のニュアンス」がその使い方を決めている。
「は」は「はかない」の「は」、「はあ」とため息をつく、「空虚」「消失」の語義。
「はあ」とため息をついて自分を消し、リンゴに憑依してゆく。リンゴについて語ろうとしている気分から「は」という音声が口の端からこぼれ出る。
感慨のニュアンスを表出してゆくという言葉の作法の延長として「てにをは」が生まれてきた。この「は」は、基本的には「はあ」とため息をつく「感慨の表出」なのだ。
「リンゴを見る」の「を」は、驚きときめく感慨の表出。「を」それ自体に「リンゴ」に対する感慨がこめられている。
「リンゴになる」というときの「に」は、「親密」「接近」の語義。「に」それ自体に「リンゴ」に対する親密さと接近してゆく気配を持っている。
まあ、そのときの「リンゴ」に対する気分で「てにをは」が決まる。
「てにをは」だって、基本的には感慨の表出の言葉なのだ。われわれは、なんとなくの気分で「てにをは」を使い分けている。いちいち「規則」を意識しているわけではない。いいかえれば、そうした感性が鈍いと「てにをは」の使い方を誤る。
日本語は、原始的な言葉の機能としての感慨表出のニュアンスを汲み上げてゆく作法を確保しながら生まれ育ってきた。



「あを」という言葉の語源は、「遠いものへのあこがれとかなしみ」というニュアンスにあった。それは海の青や空の青に対する感慨であり、そこから「青」という色彩をあらわす言葉になっていった。古代の歌は、ひとまず「青」という色彩の意味を語りながら、その奥に必ず「遠いものへのあこがれとかなしみ」がこめられていた。
「あをによし」という枕詞は、そういう望郷の感慨をあらわしている。
■たたなづく 青垣山籠れる 大和しうるわし
これは古事記の中のヤマトタケルの有名な歌で、この「青垣山籠れる」の表の意味は「青い垣根のような山々に囲まれている」というようなことだが、じつは「(大和に対する)あこがれとかなしみで胸がいっぱいになっている」という感慨のメタファでもある。そういう「青=あを」なのだ。
言葉が時代とともに意味の表出の機能に傾きつつあった古代の人々でも、ちゃんと原初の感慨表出の機能を意識しながら言葉とかかわっていた。それが「大和はことだまの咲きはふ国」という言い習わしになった。
「ことだま」とは、言葉にこめられたときめきのこと。いや、「こと」といったからといって言葉だとはかぎらない。「こと」は「出現」の語義、まあ言葉によって「たま=めでたい=人と人がときめき合っている」という関係が起きることを「ことだま」という。
古代人は、人と人の関係をとても意識していた。彼らの社会生活のもっとも大きなテーマは、食糧生産ではなく、人と人の関係だった。だから「ことだまの咲きはふ国」といった。食糧生産が第一の社会ならもっとべつのいい方が生まれてきただろう。



日本列島は、縄文時代の1万年を、きわめて小さな集団で暮らしてきた。だから、弥生時代以降の大きな都市集落をいとなむことは歴史上はじめての体験だったわけで、人と人のときめき合う関係を意識していかなければそうした集団のいとなみは成り立たなかった。それこそが、食糧生産よりももっと切実で心躍る体験だった。心躍る体験にしなければ集団は成り立たなかった。
山の向こうの顔が見えない異民族との関係には緊張や恐怖がともなう。大陸の人々は、そういう関係の歴史を生きてきた。
しかし日本列島では、すでにどこからともなく人が集まってきて混沌とした関係の集団の中に投げ入れられてしまっているところから歴史をはじめた。そうして彼らは、他愛なくときめき合っていった。
人間は、見えない相手には憎しみや恐怖を抱くが、すでに目の前に存在していれば、他愛なくときめき合ってゆく。二本の足で立っている人間は、そういう存在なのだ。
出会ってしまえば、もうときめき合ってゆくしかない。それが人類拡散の行き止まりの地で起こることであり、日本列島の歴史はそこからはじまった。この歴史は、山の向こうの見えない異民族との緊張関係を生きてきた大陸の歴史とは違う。
異民族との緊張関係に耐えながらできるだけ大きな集団をつくり結束してゆくためには、つねにおたがいが見えるところにいて監視し合い、言葉も、意味を伝えて説得し合う機能を持たなければならない。
一方、氷河期明けの日本列島の場合は、絶海の孤島であったために、異民族を知らなかった。したがって、縄文社会には、大きな集団をつくろうとする動きは起きてこなかった。
しかしそれは、人と人の関係が貧弱だったということではない。日本列島の伝統はあくまで、どこからともなく人が集まってきてときめき合うことにあった。すでに社会が、そういう関係になってゆくような構造になっていた。
もしかしたら、縄文時代こそもっとも豊かな人と人の関係が機能している社会だったのかもしれない。だから、それが1万年も続いたのだろう。
男たちは、山道を旅しながら、女たちの小集落を訪ね歩いていった。これはまあ、原始的であると同時に、きわめて高度に洗練された男と女の関係でもある。
どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合ってゆく。これが、日本社会の基礎的歴史的な生態であるらしい。そのようにして日本人は、「祭り」の文化を育ててきた。



もしかしたら日本語は、「祭り」とともに生成発展してきたのかもしれない。
いやべつに、村の鎮守の祭りだけが祭りではない。つまるところ日本人は、この世に生きてあること自体が、ひとつの祭りのように感じているのではないだろうか。息をすることも飯を食うことも、ひとつの祭りだ。
人間にとって言葉を発することは、生き延びるためのいとなみではなく、生きてあることを忘れてゆく非日常のいとなみである。
祭りとは、非日常の出来事。この生は仮の宿りであるとか、「憂き世」とか、「あはれ」とか「はかなし」とか、そうしたことも、ひとつの非日常の感慨だろう。
日本列島の伝統文化は、今どきの「生活=日常」に耽溺している「生活者」の感覚とは違う。生活を嘆きながら生活してゆく文化なのだ。
他者と一緒に暮らすことがひとつの日常だとすれば、他者と出会うことは非日常の体験だ。人類拡散の行き止まりの地では、そのようなどこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合うという「出会い」の体験が豊かに起きていた。
日本文化の非日常性。
言葉の「意味」に対する執着が薄く、メタファとしての「感慨のニュアンス」を掬い取ろうとするのも、ひとつの非日常性だといえる。
日本人は、非日常性を共有しながら関係してゆく。この生のよろこびよりも、この生の嘆きを共有してゆく。しかし「もらい泣き」は赤ん坊でもするし、人類普遍の生態だともいえる。
原始人の歴史は、世界中が生き延びようとするいとなみの歴史ではなく、生きてあることから逸脱してゆこうとする非日常のいとなみの歴史だった。そしてそれによって知能が進化し、生き残ってきた。人類の歴史は、そういう逆説の上に成り立っている。
もちろん原始人の暮らしは食うや食わずだったかもしれないが、それでも彼らが生き延びようとあくせくしていたと考えると間違う。



原始人の言葉は、生き延びるための道具として生まれてきたのではなく、そのような目的など忘れてただもう「今ここ」で他愛なくときめき合ってゆく体験として生まれてきたのだ。そして日本語は、そうした原始性に遡行するように洗練されてきた。
他愛なくときめいてゆけば、思わず音声が口の端からこぼれ出る。これが言葉の起源の体験であり、古いやまとことばは、その音声がまとっている「感慨」を純粋培養し抽出してゆくかたちで洗練されてきた。
「あを」は、遠いものへのあこがれとかなしみをあらわす。その「青」という「意味=日常」を解体して、その音声がまとっている「感慨=非日常」を抽出してゆくところに古代の歌の機能があった。
「意味=日常」を共有するのではなく、「感慨=非日常」を共有してゆくのが、起源としての日本語の作法だった。
生きてあることなんかいっときのお祭りだ……人は、どこかしらでそういう気分を共有している。それはべつに現代人の退廃的なニヒリズムだとか、そういうことではない。人類は二本の足で立ち上がって以来、そういう気分で歴史を歩んできたのであり、それによって人間的な進化を遂げてきた。
人類は、地球の隅々まで拡散していった。それは、より住みよい場所を獲得してゆくことではなかった。ますます住みにくくなっていっただけである。しかしその住みにくさの嘆きを共有しながら人類は祭りのダイナミズムを生み出していった。どうせいっときのお祭りだ、という気分を濃くしていった。日本列島という行き止まりにたどり着いた人々は、もう無意識のところでそんな気分を共有しながら他愛なくときめき合い、日本語という言葉の姿を洗練させてきた。
彼らにとっては、生きることの「意味」を共有することよりも、生きることの「どうせお祭りだ」という「気分」を共有してゆくことの方がずっと大事だった。人類は、拡散すればするほどそういう気分を濃くしていった。
なんのかのといっても、人と人が他愛なくときめき合ってゆく生態は、行き止まりの地である北ヨーロッパや日本列島やアルゼンチンなどでもっとも色濃くなっている。そして日本列島は、氷河期明けに絶海の孤島になってしまったために、その原始的な生態や言葉が純粋培養されてきた。
人類拡散の通過点である四大文明発祥の地では「一緒に暮らす」生態の文化が発達し、そのために言葉も意味作用が強調されていった。
一方「出会いのときめき」の文化である日本列島では、言葉が意味作用だけでなく感慨表出のメタファを隠し持っているというかたちで洗練してきた。



中国語の文法には「活用」という機能がないらしい。たとえば「かむ」とか「さすらう」という用言を「かみ」とか「さすらい」という体言にするということを中国人はしないらしい。すべて漢字で表記するから漢字の読み方を変えるわけにいかない、ということだろうか。しかし、それだけじゃない。それほどに言葉の意味作用に対する執着が強いから、読み方を変えたくないのだ。
彼らは、つねに異民族との緊張関係を生きてきた。異民族と対話するにせよ、それと対抗して仲間内で結束するにせよ、言葉の意味作用こそが生命線だった。
中国人どうしの口論というのは、はたで見ているとすさまじいものがあるし、ただ会話しているだけでも騒々しい口論のように見えたりする。彼らはそれほどに言葉の意味作用に憑依して、目の前の他者の気持ちの動きなんか眼中にない。そうして、いいたいことをとにかく先にいってしまおうとする流儀だから、その文章を、いちばんいいたいことをいちばんあとにいう作法の日本語に直して読み下そうとすると、返り点やら何やらいろいろややこしい印をつけていかないといけない。
英語や中国語の文法はしゃべることがいつ途切れてもいいような構造になっているが、日本語は最後まで聞かないとわからない。
日本人が漢字を輸入したからといって、日本語と中国語は似ていると思うのは見当はずれで、まったく異質の言葉なのだ。世界中で彼らほど言葉の意味作用にこだわる民族もいないし、日本人ほど意味作用に対する執着の薄い民族もない。
中国語は、文章にメタファがあっても、単語そのものにはメタファを認めない。メタファとはつまり「感慨のあや」ということ。言葉に「感慨のあや」がともなっていないから、すごい勢いの口論になる。
しかし意味作用の希薄な日本語は、単語のみならず、単語の中の一音一音に「感慨のあや」としてのメタファがこめられている。だから、議論には向いていないが、他愛ないおしゃべりの花を咲かすには使い勝手のいい言葉である。



「かる」「かつ」「かむ」「かす」「かく」「かう」……日本語(やまとことば)のこれらは、あとの音韻のメタファの違いとして言い換えられている。これらはまったく意味の違う行為なのだから、意味作用を重視するならこんな紛らわしい活用の仕方はしないはずである。
でも、ネイティブのわれわれにとっては、それで何の不都合もない。
これらの「か」のあとに続く「る・つ・む・す・く・う」のどんな意味作用があるかといえば、表向きにはただの動詞の語尾だという以上の意味はない。
それでもわれわれは、それらの音韻に隠れているそれぞれ固有のメタファを意識下でちゃんと知っていて使い分けている。「る」という行為と「つ」という行為と「す」という行為のニュアンスはそれぞれ違うし、それぞれの音声を発する感慨体験というか感覚が違う。
「かむ」といっても、行為そのものだけでなく、その行為にともなう感慨体験がメタファとしてちゃんとこめられている。「神(かみ)」という言葉がどのように生まれてきたかといえば、神とはどのようなものかという意味を表現したのではなく、「かむ」という感慨体験からきている。食い物をかめばその味がわかってうれしくありがたい心地になる。そうしてうれしくありがたいものを「かみ」といった。日本列島の神なんて、おおむねそのていどの対象である。われわれはいまだに神とはどんなものかということ(=意味)がよくわかっていない。
神なんかべつにイワシの頭でもかまわないがうれしくありがたい心地になる体験は大切だ、と古代人は思った。そして、イワシの頭でもかまわないということはつまり、中国人と違って言葉の意味作用にはあまり執着していない、ということだ。日本列島では、「意味」に気づくことによって言葉が生まれてきたのではなく、「感慨体験のあや」から言葉が生まれてきた。
何はともあれ、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合ってゆくことによって生まれ育ってきた言葉なのだ。



日本語は、異民族との緊張関係を生きてきた中国語とは、まったく異質である。言葉が異質だということは、人と人の関係が異質だということだろう。おたがい、どうにもわかり合えないし、もしもこの国が中国と仲良くするためにはわれわれが彼らの子分になる以外にないのかもしれない。彼らは、2000年のあいだこの国を子分にしようとずっと思ってきて、ついにできなかった。遠い昔の中国の文書には日本列島が子分(属国)であるかのような記述がよく出てくるが、あんなものはすべてただのでっち上げだし、しかしそこには子分にしたいという彼らの欲望がよくあらわれている。
彼らの意識には、他愛なくときめき合っているだけの関係などない。順位関係とか利害関係とか、そういう「意味」を持った関係でなければならない。いやまあそういう意識の人はこの国にもたくさんいるのだが、すべての人がそのようになることはないのもまたこの国の伝統風土である。
この国には、あちこちに他愛なくときめき合っている関係がある。そういう「お祭り」の関係がある。
人間は、どこかしらでそういうお祭りの関係を意識している。できることならただもう他愛なくときめき合っていたいものだ、という思いが誰の中にもある。それが、人と人の関係の起源であり究極であるわけで、その起源と究極に向かって知性や感性をはたらかせてゆくことを「エスプリ=機知」という。
人類拡散の行き止まりの地では人と人の「出会い」の関係に対するそういう「エスプリ(機知)」が発達しているし、途中の通り道である四大文明発祥の地では、くっついていたり離れたり排除したりする関係になるための意識と作法が発達している。
人間なら誰だって、この「他愛なくときめき合う」という人と人の関係の起源と究極に対するイメージは持っているのだが、そのようにさせない社会の構造がある。まあそれだけのことなのだが、やっぱり日本語と中国語は違う。
人と人の出会いの関係をやりくりする「エスプリ(機知)」ともに日本語が生まれ育ってきた。日本語は、中国語のような意味作用によって相手を説得してゆくという機能は貧弱である。その代わり、人と人の出会いの関係をやりくりする「エスプリ(機知)」を持っている。



明治以来に日本がたちまち欧米に追いついていったのは、留学生をはじめとして、中国・韓国人よりも欧米人との「出会い」の関係を上手に結べたからだろう。言葉を覚えるのは、中国・韓国人の方が上手だったはずだが、母国語によって培ってきた出会いの関係に対する作法(センス)において、たぶん日本人の方にアドバンテージがあった。
出会いの作法を上手にこなせるかどうかという問題がある。
人類拡散の通り道であった中国大陸では、出会いの関係をやりくりする「エスプリ(機知)」が育ってこなかった。
出会いの関係において生まれるのは、ただの無駄話である。おたがいに相手を説得したり意味を伝えたりということは大した問題ではない。この無駄話を上手にできるセンスを「エスプリ(機知)」という。
中国大陸では、「ホラ話」を面白おかしくもっともらしく語る文化は発達したが、それは無駄話とはちょっと違う。彼らは、日常の雑談においても、その言葉の意味作用によって相手を説得しにかかる話し方をする。それに対して、どうでもいい内容の言葉のキャッチボールができるかどうかということ、それが「エスプリ(機知)」である。
自分をプレゼンテーションする能力なら、意味作用の強い言葉を使いなれた中国・韓国人の方が優れているだろう。しかし、それができれば世界中の人に好かれるとはかぎらない。日本列島の伝統風土は、そういう文化ではない。「エスプリ(機知)」とは相手の言葉に反応できるセンスのことであり、知らないものどうしが出会えば、まず「出会いのときめき」を持っているかどうかが試される。欧米人は、とくにそういう作法にこだわる。行き止まりの地の文化は、「お祭り」の文化である。
日本列島は、そうかんたんに中国・朝鮮の文化を移植できるところではない。仏教や文字を輸入したからすぐにその延長で考えられがちだが、言葉や人と人の関係のセンスにおいてはとても異質なのだ。
朝鮮はともあれ儒教文化をそのままのかたちで輸入していったが、日本列島に入ってくると、儒教も仏教も漢字もどんどん変質変形してゆく。
日本列島の古代人は、相手の言葉をデフォルメして投げ返す「エスプリ(機知)」を持っていた。そうやって和歌という贈答歌の文化がさかんになっていった。
その国の言葉の歴史は、どのような人と人の関係の歴史を歩んできたかということであり、その点において日本も中国も朝鮮も、それぞれまったく異質な歴史を歩んできた。中国・朝鮮の言葉がどのようなものかということはともかくとして、この国の言葉の古型が中国・朝鮮から移植されたものだという安直な思考はほんとにくだらないと思う。まあ、日本語そのものに対する思考が安直だからそういうことがいえるのだろう。
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