輝きながら消えてゆく・かなしみとときめきの文化人類学18


どんよりと鬱陶しさがたまって停滞している「穢れ」の反対は、「きらきら輝いている」状態だともいえる。それを「きれい」という。穢れが消えている状態を「きれい」という。
英語では輝いていることを「シャイン」とか「ブリリアント」などといったりするが、日本語のニュアンスでは「クリーン」に近い。「きれい」と「クリーン」は、なんとなく語感が似ている。「クリーン」のもとの言葉が「クリー」だとしたらもう、「きれい」と同じようなものでしょう。
「クリーン」という音声には「きらきら輝いている」というニュアンスが感じられる。もしかしたら大昔の西洋人だって、きらきら輝いてきれいなものを「クリーン(あるいはクリー)」といっていたのかもしれない。何しろ日本語は、英語よりもずっと原始的な言葉なのです。
何もないさっぱりした状態を「きれい=クリーン」という。そしてきらきら輝いていることを日本人は「きれい」という。
日本人にとって床や洗面台やバスタブは、ただごみがなく清潔だというだけでなく、きらきら輝いていないといけない。廊下は、箒で掃くだけではなく、雑巾がけをする。それはただ清潔にするというだけでなく、きらきら輝かせようとする行為です。
心は、きらきら輝いているものに親密になってゆき、同化し溶けてゆく。心がそこに溶けて消えてゆく。心が消えてゆくカタルシスがある。そのカタルシスとともに、きらきら光るものが愛着されている。
「きらきら」というように同じ音声を繰り返す表現は、世界中のことばにあある。それは、心のゆらめきを表しているのでしょう。世界は、ゆらめきながら消えてゆく。心が消えてゆくカタルシスとともにそうした表現が生まれてきた。
それはしかし、心がなくなるということではない。心にまとわりついているものが消えて心がさっぱりするということ。何も思っていない心ほどさっぱりした心もないし、華やいでいる心もない。華やいでいる心が、同じ音声の繰り返しの言葉を吐かせる。
きらきら輝いていることは、何もないことであり「きれい=クリーン」なことなのです。
まあ、それほどに人の心は生きてあることの嘆きにまとわりつかれて生成している、ということでもある。そうやって「もの」という言葉が生まれ、それとは反対のニュアンスとして「きれい」という言葉が生まれてきた。



何かに「まとわりつかれている」状態から逃れるためにはどうすればいいのか?
われわれは、いろんなものにまとわりつかれて生きている。
それを引きはがすことは、そうかんたんではない。人は、いやなことほど長く覚えている。一生忘れられないいやなこともある。
引きはがせないならもう、自分消してしまうしかない。いやなことからまとわりつかれているときの人間は、本能的に消えようとする。
向こうからやってくる自転車や自動車に気づいているのに動けなくなってしまうときがある。それは、本能的に消えようとしているのです。「ああもうだめだ」と思えば思うほど動けなくなる。
たぶん、消えようとする本能的な衝動は、女のほうが豊かにそなえている。
このまとわりついてくる閉塞感からはもう逃れられない。そう思いながら平安時代の宮廷の女たちは「あはれ」や「はかなし」の感慨を抱きすくめながら消えてゆこうとしていた。
『無常』という本を書いた唐木順三という批評家は次のようにいっています。
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■「はかなし」や「あはれ」は、ものそのものの属性であるとともに、それを受け取る主体の情緒的要素でもあるという二重の意味があり、即ちそれらは存在的性格であるとともに情緒的性格でもある。
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でもこれは、ちょっと違うのですよね。
目の前の景色が「あはれ」や「はかなし」であるのではない。その「存在」はもうありありと感じる。
堂々とした松の木が「あはれ」や「はかなし」に見えるはずがありません。しかし松の木が堂々と存在を主張しているからこそ、それを見ている自分の存在はいっそう「あはれ」にも「はかなし」にも感じる。
「この世ははかない」といっても、「この世」とは、たんなる人と人の関係や共同体の制度と個人の関係などのことであって、実体=存在ではありません。それは、つねに移り変わってゆく。だから「はかない」のであり、実体=存在としての山も川も町のビルも高速道路も、「主体の情緒的要素」においてはつねにありありとした存在なのです。
自分の体だって、ありありとした存在だと感じるから、鬱陶しくもなる。痛いとか苦しいという鬱陶しいときに、ありありと存在を感じる。ありありと存在を感じるからこそ、それを消そうとする「主体の情緒的要素」が生まれてくる。
まあ「あはれ」とか「はかなし」というときは、山奥の鹿の鳴き声とか風の音とか、実体=存在ではない「気配」のことをいうのが一般的です。
目の前の世界や他者は、どうしてこうも確かな存在としてあらわれているのだろうか。人は、自分の存在よりも、世界や他者の存在をより確かに感じている。それは、自分の存在を消そうとする本能を持っているからでしょう。
人間は、消えようとしている存在です。弱い生き物ほど、消えようとする衝動が強い。二本の足で立ち上がった原初の人類は猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめたのであり、その無意識はいまだにわれわれの中に残っている。
「あはれ」や「はかなし」は、つねに「主体の情緒的要素」として感じられているものです。山奥の鹿の鳴き声や風の音だって、あくまで「消えようとしている」存在である「主体の情緒的要素」を引き起こす対象なのです。
この、人は本能的な消えようとする衝動を持っている、ということこそ「あはれ」や「はかなし」の感慨の基底であり、べつにこの世界の「存在」を「あはれ」とか「はかなし」と見ているのではないのです。
ともあれそれは、命というのは「あはれ」で「はかない」ものであるという、死を見つめ死と和解してゆく感慨であり思想だったのです。そしてそこに立てばこの世界も他者の存在もいきいきと輝いて見えるということであり、そうやって心は華やいでいったのです。



まあ、普通の人間の「あはれ」や「はかなし」の感慨だって禅の悟りみたいなもので、本質的には生き物としての「消えてゆく」という体験です。
べつに禅の悟りなど体験しなくても、自分を忘れてひたすら泣いてゆけば、それだって自分が消えてゆく体験です。その涙とともに世界がきらきら輝きゆらめいていれば、それが「消えてゆく」という体験になる。
けっきょく、神を見たとか禅の悟りだ勘違いするとき、人は光を見るという体験をする。
そうやって人間にとっての光の輝きとか揺らめきというものがいちばんの価値になっている。それは、誰の中にも「かなし」の感慨が宿っている、ということです。神も悟りも、どうでもいい。
人間は、世界や他者が輝いて見える体験をする。何はともあれ、その体験があれば、生きていられる。
人間は、生きられない存在であり、生きるのにやっとこさの存在です。神も悟りもどうでもいい。生きられるかどうか、それが、生きられない存在である人間にとってのいちばん切実な問題でしょう。
生きるだけではだめだ、善や正義を持たなければならない……なんて、しゃらくさいことをいってんじゃないよ、と思う。
人間はけんめいに生きられるかどうかと問うている存在であり、だからキラキラ輝きゆらめくものが好きになっていったのであり、そこから「かなし」の感慨が生まれてきた。
人間は、根源的には生と死のぎりぎりのところでものを思っている存在なのです。
そんな、神だの霊魂だの善だの正義だのというしゃらくさいものを思う存在であるのではない。
ただもう、キラキラ輝きゆらめくものに心を動かされる。



きらきら輝き揺らめきながら消えてゆくのでしょうか。
射精感覚とかオルガスムスというのは、ひとまずそういう体験なのでしょう。
存在するものであるから、「消えてゆく」という体験ができる。消えてゆくときにこそ、もっともたしかに「存在」を実感している。「存在」という実感は、「消えてゆく」という体験の中にある。
射精のときは、心も体も震える。すべての存在は、揺らめきながら消えてゆくのでしょうか。消えてゆくという体験は、揺らめくという体験でもある。
存在が安定しているときは、存在しているとも感じない。不安に揺れているときに、はじめて「存在している」という状態に気づかされる。つまり、「生きられない」という状態の中で、はじめて「生きている」ということに気づかされる。
人間は、そうやって生きられない状態を生きている存在なのです。そうやって、揺らめきながら存在している。消えそうになりながら存在している。「消えてゆく」という体験をしながら存在している。



弥生人は、使わなくなった銅鐸を壊して土に埋めた。彼らのイメージでは、その壊れている状態は揺らめいて消えてゆこうとしている状態だったのでしょうか。おそらく、そういう心模様があったのであって、それは呪術がどうのというような問題ではない。彼らは、その壊れている状態に、思い切り「消えてゆくもの」に対する「かなし」の感慨を向けていた。
ネアンデルタール人が死体の頭部を切断し皮と肉をはいだしゃれこうべだけにして葬っていたのも、「消えてゆくもの」に対する愛惜の感慨を込めていたのでしょう。
そういう原始的な「かなし」の感慨を、制度的な文明社会に生きているわれわれは失いかけている。
所有し執着してゆくだけが愛じゃないのですよね。そんなことよりも、喪失することにこそ、もっとも豊かな人間的なときめきがある。それが、「消えてゆく」ということです。
火のゆらめきも、「消えてゆくもの」なのでしょうね。それを眺めていると、「消えてゆくもの」に対する「かなし」の感慨がしみじみと豊かに深く湧いてくる。そして「自我」というものも消えてゆく感覚に浸される。そのときにこそ人は、この世界や他者の存在をありありと感じている。「消えてゆく」という感覚の中で、「存在」をありありと感じている。そうやって心が揺らめいている体験をしている。
揺らめく、という消失感覚。この感覚が、人間存在の根源にはたらいている。この感覚が、直立二足歩行の起源以来の人類史に地下水脈のように通底してきた。
揺らめくものは、消えてゆくものです。人間は、そのことに対する深い「かなし」の感慨を抱く。
この世のすべての存在するものは消えてゆく。永遠に存在できるものなんか何もない。死んだら土に還る。そうやってすべてのものは変化してゆく。そうやってもとのかたちが消えてゆく。変化してゆくとは、「消えてゆく」ということです。きらきら輝きながらうつろい消えてゆく。それが、「無常」ということなのでしょう。
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