エルカスティーヨ洞窟・ネアンデルタール人論87

 現在確認されているもっとも古いヨーロッパの洞窟壁画は、スペインのエルカスティーヨ洞窟に描かれた曲線や点線による模様のような絵で、それが4万8千年くらい前のものだとか。
 4万8千年前といえば、まだクロマニヨン人は登場していない。ネアンデルタール人が描いたものだ。もっとも置換説の研究者は、そのときクロマニヨン人=アフリカ人がヨーロッパに移住してきていた証拠だというのだろうが、従来のネアンデルタール人とは少し違ういわゆるクロマニヨン的な骨格がヨーロッパにあらわれてくるのは、3万5千年前まで待たねばならない。集団の骨格なんて、1000年もたてばずいぶん変わってしまう。近代の日本人なんか、たった100年で平均身長が10センチ以上伸びた。骨格なんか、ネアンデルタール人だけでかんたんに変わってゆくことができる。
 ともあれ、このあともっと古い壁画が見つかるかもしれないし、消されたり、時間とともに消えてしまった壁画を発見することはもうできない。2万年くらい前の有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画だって、その下にもっと古い絵が無数にあったのかもしれない。
 3万5千年前以降のクロマニヨン人ネアンデルタール人の末裔であって、アフリカからやってきたアフリカ人だったのではない。そのころのアフリカ人には、あのようなやわらかい曲線で動物の姿を描写した壁画を描くようになる歴史の基礎はなかった。
ネアンデルタール人クロマニヨン人にとっての洞窟がどのようなものであったかといえば、寒さから逃れて休息や睡眠を確保する場所だったに決まっている。クロマニヨン人のころはかんたんな掘立小屋をつくるようにもなったのだが、それが洞窟以上に避寒の機能を持っていたはずはない。たんなる作業のための小屋のようなもので、極寒の季節にそこで寝起きをしていたわけでもあるまい。
洞窟の奥は、温度が一定していて冬でも暖かい。そういう寝場所を持たないで、原始人がその極寒の環境で生きてゆくことなどできなかったはずだ。
 集団的置換説の提唱者の一人であるイギリスのC・ストリンガーは、壁画が描かれた洞窟について、こう説明している。「そこは数百キロ四方の同盟関係にある各地域の代表が集まって会議をする場所で、壁画は彼らの宗教や同盟関係のためのモニュメントだった」と。
 なんとまあ、くだらない思考であることか。
 原始人が道なき道を100キロも旅してきて、またもとの洞窟に戻れるとでも思っているのか。
 原始社会に文明社会のような「同盟関係」があったと発想すること自体、中学生の空想のレベル以上でも以下でもない。
 海の貝殻が数百キロ離れた山間地の洞窟でも見つかっているといっても、海までいって物々交換をしてきたという証拠にはならない。人の手から手へと渡されながら運ばれてきただけかもしれない。そういう近隣の集団どうしの交流は活発になされていたのだろうが、広い地域での同盟関係を結んで共存共栄を図るとかよその同盟集団と戦争をするとか、そんなややこしいことをしていたはずがない。同盟関係は、そのまま共同体(国家)になってゆく。そのときすでにギリシャ都市国家よりも大きな共同体が存在していたとでもいいたいのか。
 原始社会の集団では離合集散がかんたんに起きていた。そうやって地球の隅々まで拡散していったわけで、同盟関係を結べるような固定化した集団など存在しなかった。
 近在の集落どうしが助け合うということをしていただけであり、その連鎖で海の貝殻が数百キロ離れた山間地に運ばれてくるということも起る。
 洞窟壁画は、深い洞窟の奥の方に描かれてあることが多い。そういう彼らの生存のためにぜひとも必要な場所をただの集会の場所だけに使えるほど、ヨーロッパには無数にあったのか。そうではあるまい。そこは、どこよりも貴重な人が暮らすための洞窟であったはずだ。
 その洞窟壁画は、そこで暮らしていた人々の日常の心模様から生まれてきた。
 極寒の季節は、体力のない子供を奥の部屋でまとめて寝かせた。そうして子供たちの心を落ち着かせるために、子供たちの好きな草食動物の絵をたくさん描いてやったし、その壁には子供の落書きのような稚拙な絵もたくさん混じっている。
 肉食動物の絵がほとんどないのは、子供の恐怖を呼び覚ますからだろう。よくいわれるように、それが狩りの成功を祈って描かれたものであるのなら、狩りの名手である肉食獣も描いてその能力にあやかろうともしただろうが、そのような絵は皆無だといっていい。
 同盟のためのシンボルなら、一頭だけを描くか、アフリカのようにみんなで狩りをしている場面とか、そんなものを描いたに違いない。
 しかしもっとも華やかなラスコーの壁画にしても、それは、絵の名人も子供も誰もがただもう草食動物ばかりを好き勝手にあれこれ描いているだけであり、宗教や同盟関係のためのモニュメントとしての統制感などない。今でいえば、幼稚園の教室の壁面のような感じなのだ。モニュメントとしての統制感なら、アフリカの壁画の方が持っている。
 ネアンデルタール人クロマニヨン人はそこで寝起きしていたのであり、その「寝起きしていた」ということの心模様こそがそこに壁画が描かれる契機になっているに違いないのだ。
 何が宗教や同盟関係のモニュメントか、ばかばかしい。原始時代であれ現代であれ、人類の「絵を描く」という行為は、この生の不安やいたたまれなさをなだめる行為として生まれてくる。人はそのようにして絵を描きはじめるのであり、そんなことは当たり前じゃないか。
 人類の絵画表現の起源の契機は、共同幻想としての宗教や同盟関係にあるのではない。人が絵を描きはじめるには、人として生きてあることの実存的な契機というものがあるのだ。それは、「生き延びるための」ものではなく、生きてあることのいたたまれなさからの解放として体験されるのであり、そこのところを、「呪術や同盟関係を象徴するモニュメントだった」と合唱するストリンガーをはじめとする現在の人類学者たちは何もわかっていない。


 まあ、熱帯のアフリカと極寒の北ヨーロッパでは、生きてある心模様もそこから生まれてくる文化のかたちも、とうぜん違ってくる。クロマニヨン人の壁画文化は、アフリカのそれをそのまま移植して発展させたというようなものではなく、それは、ひとつの状況証拠として、そのころヨーロッパに移住してきたアフリカ人などひとりもいないということを意味している。
 同じ人間でも、原始時代のヨーロッパとアフリカでは、生きてあることの「嘆き」の質が違っていた。なんといってもそこは、そのころの地球上でもっとも寒い地域ともっとも暑い地域だったのだ。
 両者には、絵画表現の感覚に根底的な違いがあった。
 まず、線の描き方の志向性が正反対だった。
 アフリカの直線志向に対してヨーロッパの曲線・点線志向。
 アフリカで発見されている最初の絵画表現は、7万年前の、赤色オーカーという石の表面に線刻されたものだが、それは、直線を斜めに交差させて菱形の図形が並んだような幾何学的模様になっている。
 一方30万年前のネアンデルタール人による牛の骨に描かれた線刻は、曲線による不規則な模様があらわされている。
 ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のようなリアルな草食動物の絵は、曲線に対する感覚を持っていなければうまく描けない。それはネアンデルタール人から引き継いだ感覚であり、同じころのアフリカ人にその感覚はなかった。
 2万5千年前のタンザニアのクンドゥシウの洞窟壁画は、一緒に踊っているらしい3人の人物が描かれているのだが、ほとんどすべて直線だけで描かれている。そこでの人間の体は、木の棒のように細長く、ラスコーの動物壁画のような量感や丸みはまるでない。そのかわり平行線を正確に長く引いて木の棒のように細長く描く技術はヨーロッパにはない図形感覚だった。直線に対する感覚が発達しているから、平行線を長く引くことができる。直線に対する志向があると、自然に平行線の図形に対する感覚が目覚めてくるらしい。それはもう、平行線だらけの、平行線を組み合わせて描いた絵なのだ。頭飾りの縞模様とか、木の棒や人間の体の正確な平行線、平行線だけで絵が成り立っている。ちなみにこの縞模様の頭飾りのようなものは、エジプト王朝のツタンカーメンの王冠というか頭飾りに似ている。
縞模様=平行線はアフリカの伝統であり、一方ヨーロッパの点線志向の感覚はビーズを服に縫い込んで模様をつくる文化になっていった。
 ラスコーの壁画の動物の足などは、けっして単純な平行線ではなく、腿と脛のかたちや量感の違いをちゃんと描きわけてある。彼らは、点線を記すように視点を移動してゆくことができた。
 そのころのアフリカ人は、なぜ直線志向だったのか?直線が持つ緊張感は、人の意識を覚醒させる。彼らの日常は、暑さにうだって頭の中がぼやけてしまいそうになることが多い。そんなとき、直線の画像は、頭の中が覚醒する。そういう体験を繰り返していれば、自然に意識を覚醒させようとして直線を描くようになってくるし、人間の体も平行線のように見えてきたりする。まあ彼らは、すらりとした長身だったということもあるし。
 オーストラリアのアポリジニも、同じように平行線による細長い人の体を描いた原始時代の壁画を残している。


 おそらく5万年前のアフリカ人は、すでに「部族意識」を持っていた。なぜなら彼らはそれぞれが家族的小集団に分かれて暮らしていたのであり、その小集団だけでは、集団として完結できなかった。たとえ食糧を自給自足することができたとしても、その小集団だけではセックスの相手を見つけることができない。だから、ばらばらに暮らしながらも、自然にセックスの相手を見つけるためのネットワークができていったに違いない。それが、起源としての「部族」ではないだろうか。アフリカには、部族としての「同盟関係」があった。そして、同盟関係を確認するための「会合=祭り」も催されていたのかもしれない。なにしろ彼らは、サバンナの広い地域を森から森へと移動生活をしていたのであれば、たとえばその森だけの特別な木の実が実る季節にはみんながそこに集まってくるということもあったのだろう。
 タンザニアのその洞窟壁画は、三人で一本の長い棒を持って横に並びながら一緒に踊っている絵柄であり、それは複数の小集団の連帯=同盟を象徴しているのかもしれない。絵には三人だけを象徴的に描いても、じっさいは十人か二十人が並んで踊っていたのかもしれない。
 彼らは、同じころのヨーロッパと違って、人間ばかり描こうとした。たしかにそれは「同盟関係」を象徴している絵であるのかもしれない。その「関係意識=共同幻想」が基礎になって、氷河期明けのエジプト・メソポタミアの国家文明が生まれてきたのだろう。氷河期が明けて人の往来が活発になり、アフリカ中央部のその部族意識がエジプト・メソポタミアに伝播していった。エジプト王朝は、ナイル川中流域の部族との抗争を繰り返しながら発展していった。彼らは人種的にはコーカソイドで、ネアンデルタール人クロマニヨン人の血も混じっていたから、集団の連係プレーの文化を持っており、ナイル中流域のネグロイド集団と戦争しても負けなかった。しかし、彼らの集団が国家という同盟関係の共同体へと発展してゆくためには、アフリカ人の部族意識と混血してゆく必要があった。
ネアンデルタール人クロマニヨン人のころはまだ、集団どうしの同盟関係などなかった。彼らには、アフリカ人のような「部族意識」はなかった。エジプト・メソポタミアは、氷河期明けにその「部族意識」をいちはやく導入することによって「同盟関係」が生まれ、国家という共同体になっていった。つまり、氷河期明けの国家文明の発生のころになって、はじめてアフリカ人がようやくエジプト・メソポタミアの地域まで(おそらく戦争に負けた奴隷として)移住してきた、ということだ。


 アフリカ中央部の家族的小集団のネットワークの上に成り立った「部族」という単位は、人類最初の共同体だったともいえる。
 ミーイズムが強くて集団の連係プレーが苦手なアフリカ人が、人類の共同体(国家)=共同幻想の基礎をつくった。共同体(国家)の制度性が強化されると、ミーイズムも強くなる。ミーイズムこそが、共同体(国家)の制度性の基礎になっている。
 集団として完結していないから、ミーイズムが育つ。完結できない集団である家族に閉じ込められると、ミーイズムが育つ。
 国家という共同体は、集団として完結しているか?完結しているなら、ほかの国家に関心を持ったり戦争をしたりということをしない。完結させるために戦争をするのであって、完結しているからではない。
 5万年前のアフリカ人にとっての「部族」は、それぞれの家族的小集団を集団として完結させるための装置として機能していた。ひとまず「部族」は、集団として完結していた。だから彼らは、他の部族集団に対する関心を持たなかったし、接触することもなかった。そうやってアフリカでは、高身長のマサイ族とか尻の大きなホッテントットとか低身長のピグミー族といったようにさまざまな身体形質に分かれていったし、現在でも「部族」間での言葉の違いが国家の建設運営の障害になっていたりする。彼らは、それぞれ完結できない家族的小集団に身を置きながらも、幻想的にはひとまとまりの「部族」として完結し、けっして「拡散」してゆかない生態を持っていた。
 外部に対する無関心、それがミーイズムであり、アフリカのサバンナにはそういう伝統がある。
 そして現在のこの国だって、自分に対する関心が強すぎて、他者の「感慨のあや」に対しておそろしく鈍感な大人たちがたくさんいる。彼らは他者とかかわることにはとても熱心なのだが、鈍感なまま勝手に他者の人格や感慨のあやを決めつけ、教育したり裁いたりすることばかりしている。そうやって子供や若者を追いつめている大人たちのなんと多いことか。子供や若者やまわりの人間との関係に強く執着しているが、何もときめいていない。彼らの関心は、あくまで自分自身にある。自分自身に対する関心を確保するための機能として、他者との関係に執着してゆく。それはもう悪ずれしたアフリカ人の「部族意識」のようなものであり、今どきのこの社会に蔓延する若者たちのミーイズムは、大人たちのそれが発信源になっている。
 子供というのは、良くも悪くも大人たちに影響されてしまう存在なのだ。大人たちは、自分たちがそういう子供を育てているのに、勝手に子供がそうなってしまったと嘆き、自分たちはまるで無傷・無罪であるかのような顔をしている。
 それはともかくとして、サバンナにはたくさんの外敵がいるし灼けつくような日差しの場所だから、彼らは自分たちが暮らす森の外に対する関心を持たなかった。森の中の木陰でまどろみながら彼らは、そのまどろみ=停滞から解放されて意識が覚醒してゆく体験として、直線志向のメンタリティになっていった。彼らの瞬発的な動きの踊りや激しいリズムの音楽も、ひとつの直線志向であり、意識を覚醒させる機能として発展してきた。サバンナに囲まれたその小さな森の中で生を完結させ、自分ひとりの世界で生を完結させてゆく、そういうミーイズムを確保するよりどころとして「部族意識」が発達してきた。彼らの世界は、「部族」として完結しつつ、個人としても完結していた。
 ミーイズムだからといって他者との関係や集団を必要としていないかというとそうではなく、ミーイズムこそ、それを成り立たせるために他者との関係や帰属するべき集団を強く必要としている。そしてその他者や集団に対する強い関心や執着は、他者や集団に対する鈍感さの上に成り立っており、その鈍感さは他者や集団のことを勝手に決めつけてすべてわかっているつもりになっている。彼らには「何だろう?」という問いがない。彼らはその無関心で世界や他者に執着してゆく。執着できるほどに無関心なのであり、世界や他者に気づいたり感じたりすることはないが、世界や他者のことをよく知っている。そのミーイズム=自意識で、誰よりもよく知っているつもりになっている。まあ、このへんの心模様のあやは、なんともややこしい。
 人間というのは、ほんとにややこしい生きものだ。「集団的置換説」などという薄っぺらな思考で人類の歴史の真実や原始人の心模様の真実に推参できるはずがない。
 確かにアフリカ人の「部族意識」は「同盟関係」を象徴している洞窟壁画を生み出したが、同じころのヨーロッパのそれも同じコンセプトの上に成り立っていたかというと、そうとはいえない。ヨーロッパの壁画はほとんど人間なんか描いていないし、アフリカと違ってその草食動物群は曲線志向の感覚で表現されている。それはおそらく極寒の北ヨーロッパで暮らしてきた50万年の歴史によって培われてきた感覚であり、まったく違う歴史を歩んできた同じころのアフリカ人がいきなりそこに移住していって生み出せるような表現ではなかった。


 原始時代のヨーロッパ人は、なぜアフリカ人と違って「曲線志向」の絵画表現の感覚を持っていたのか?
 エルカスティーヨ洞窟のその点線や曲線の模様のことを、一部の研究者たちは「呪術的なトランス状態(恍惚状態)」で描いたものだといっている。
 どうしてそんなくだらないこじつけをしたがるのだろう。何はさておいても人類が絵を描きはじめた契機は、「呪術」などという文明社会の共同幻想にあるのではなく、生きてあることの実存感覚の問題なのだ。どうしてそこのところを問おうとしないのか。
 極寒の季節の下で寒さを忘れるために動き回って興奮しっぱなしで暮らしていれば、眠りに就くときには当然その興奮を鎮めようとする心模様が生まれてくる。興奮しっぱなしでは、どんなに体が疲れていてもなかなか眠れない。
 それがトランス状態のビジョンとまったく無縁だというつもりもないが。人類史のまずはじめには、興奮状態を鎮めようとする心の動きがあっただけだろう。呪術だって、いったん激しい興奮状態になっておいてから、やがてトランス(恍惚)状態に入ってゆく。そうして、たとえば光の粒が散乱しているビジョンを体験したりする。まあそのようなことの原初的な体験として、点を反復して描き続けていると興奮が鎮まってくるということが見い出されていったのだろう。またその壁面には、「田」という字のように、ひとつのスペースをいくつにも分割するという模様も描かれている。そうやって心を落ち着かせる。
 熱帯のアフリカ人は心を興奮・覚醒させるために絵を描いたが、極寒の環境のもとに置かれたヨーロッパ人は、心を鎮める体験として絵を描くことを覚えていった。
 まあ点線も、ひとつの線の分割模様であり、そうやって彼らは昼間の興奮した心を静めていった。これが、ヨーロッパ100万年の歴史の伝統なのだ。アフリカ人が集団の中で自己主張してゆくメンタリティを持っているとすれば、ヨーロッパ人は、各自が自分を殺しながら集団の連携をつくってゆくことができるメンタリティを持っている、そうやってたとえば「オーケストラ」の文化を生み出した。誰もがそれぞれの自分のパートに埋没しながら、集団としてのダイナミックなハーモニーを生み出してゆく。それはもう、徹底的な分割であり統合でもある。点線=分割の文化。
 直線は、素早く引けば引くほどまっすぐになる。そうやって心が覚醒してゆく。それに対して点線はゆっくり丁寧に描いていった方が全体の印象が整う。そうやって心が鎮まってゆく。
 欧米の白人がアフリカ系の黒人を差別するのも、おたがいの背負っている歴史が違い過ぎるということもおそらくあるのだろう。置換説の研究者がいうように、4〜3万年のアフリカ人がいきなりヨーロッパにやってきて白人になっていったのなら、こんな根深い差別も生まれないに違いない。
 白人のおしゃれは自分が風景の一部になるようにあんばいしてゆくが、黒人はぎらぎら光るものををつけたりしながら風景の異物として自己主張してゆく。点線=分割の文化と直線=平行線の文化。
 ヨーロッパの壁画における草食動物の体の線の丸みは、点線つなげてゆくような視点の移動の感覚を持っていないと描けない。さっと直線を引くようなわけにはいかないのだ。


 5万年前のネアンデルタール人は、点線=分割の絵画表現の文化を持っていた。それが、エルカスティーヨの洞窟壁画にあらわれているし、その基礎がなければクロマニヨン人の精緻な草食動物の壁画も生まれてこない。
 その表現は、昼間の興奮を鎮めて安らかな眠りをもたらした。彼らはそうやって絵を描くという行為に目覚めていった。アフリカ人の意識を覚醒させる直線志向にせよ、人類の絵を描くという行為は、個体として生きてあることの実存感覚から生まれてきたのであって、集団存続のための共同幻想として生まれてきたのではない。
 絵を描くようになった歴史の結果として、アフリカではそのような「同盟関係を確認するためのモニュメント」の壁画を制作するようにもなってきたが、同じころのネアンデルタール人クロマニヨン人は、集団のアイデンティティに執着するメンタリティはなかった。彼らは、集団からはぐれながらその地まで拡散してきた人々だった。そこではつねに集団の離合集散が起きていた。氷河期の寒さが厳しくなればとうぜん集団の人口は減少するが、離合集散をいとわないから、人口が減少した集団どうしが合流してかえってより大きな集団になるということもできた。
 人は、根源において集団をつくろうとする衝動や欲望など持っていない、他愛なく人人がときめき合ってゆく結果として、避けがたく集団の中に置かれてしまうだけだ。集団なんか鬱陶しいだけなのに、集団の中に置かれてしまうほかない生態を持っている。
氷河期の北ヨーロッパは、人々が寄り集まっていないと生きられない環境だった。集団のアイデンティティに執着していなかったからこそ、集団の連携のダイナミズムを生むことができた。それは、広い地域の「同盟関係」ではない。近隣の集団どうしが、そのつどの出会いによって合流したり離れたりしていただけだ。たとえば近くに草食動物の大きな群れがやってくれば、近隣の集団どうしが合流して狩りをしたとか、まあそのようなことだ。
オーケストラのハーモニーだって、演奏者たちは、近隣(=まわり)との連携に意識を集中しているだけで、全体のハーモニー喉わからないし、忘れている。だから「指揮者」が必要なのであり、全体のハーモニーは指揮者と聴衆だけにしかわからない。
人の世だって、世の中全体のことなど忘れて近隣どうしが連携してゆくところでダイナミズムが生まれる。人と人が他愛なくときめき合っているという基礎がなければ、集団のダイナミズムは生まれない。そのとき人は、集団をつくろうとしているのではない、他者と連携しようとしているのだ。
 集団の連携プレーは、それぞれが自分を消してゆくことによってダイナミックになる。つまり集団に対する鬱陶しさを持った自分を消してゆく。
アフリカ人の「部族意識」のように「集団に対する帰属意識を持った自分」が集まっても、ダイナミックな連携にはならない。


ネアンデルタール人クロマニヨン人から現在のヨーロッパ人まで続いているその生態の伝統は、点線=分割の絵画表現に象徴されるような心を鎮めてゆく文化の歴史から生まれてきた。
 ヨーロッパ人は、集団の「連携=ハーモニー」のために自分を消してゆくことができる。
 アフリカ人の、心を覚醒させる直線志向の伝統は、ミーイズムと、ミーイズムのはたらきを約束する「部族」というネットワーク=同盟関係に対する執着の上に成り立っている。それはもう彼らの洞窟壁画の表現のさまにちゃんとあらわれており、そんな彼らが3万年前のヨーロッパにやってきてクロマニヨンの洞窟壁画を描いたということはありえない。ヨーロッパには、そういうアフリカ的=直線的な洞窟壁画は一例もない。
 アフリカ人は日々の暮らしのまどろみから飛び立とうとして、直線志向の文化を生み出していった。それに対して氷河期の北ヨーロッパという極寒の荒野を生きることを余儀なくされたたネアンデルタール人クロマニヨン人は、そのいたたまれなさからの解放として、アフリカ人とは逆に切実にまどろみを求め、そこから曲線や点線を志向する表現感覚を持つようになっていった。
そして彼らには、広い地域での同盟関係=ネットワークをつくってゆく余裕などなかった。現実問題として、原始人が雪の荒野を何百キロも徒歩の旅をしてあちこちから集まってくるということなどできるはずがないではないか。もしも同盟関係=ネットワークという助け合いが必要になるときがあるとすれば、雪に閉じ込められて食糧も人口も減っていった時期で、そんな悠長なことをしている体力も気持ちも余裕もなかったはずだ。それこそ「遠くの親戚より近くの他人」で、近隣の集団どうしの連携を豊かにしてゆく以外に生き残るすべはなかったのではないだろうか。
クロマニヨン人は数百キロ四方の同盟関係=ネットワークを持っていた」だなんて、脳みそがお花畑過ぎる。ストリンガーをはじめとする「集団的置換説」を唱えるものたちは、人間とは何かということの本質・自然を問うことなく、安直なパズルゲームのような空想ばかりしている。
 離れた地域のものどうしの「約束=同盟」、すなわち「未来に対する計画性」が彼らを生かしていたのではない。そんなところに人間性の本質・自然があるのではない。「今ここ」の「出会いのときめき」こそが彼らの生を支えていたのであり、その「いまここ」に気づいたり感じたりすることの「ときめき」こそが人間的な知性や感性すなわち知能の本質にほかならない。
 そして、「今ここ」に対する知性や感性のはたらきが熱帯のアフリカと極寒の北ヨーロッパでは逆向きになっていた、ということで、それが洞窟壁画の技法やコンセプトにもあらわれている。
 氷河期のアフリカ人のメンタリティや文化はその後の国家文明の発生の基礎になったのだから、それはそれで人類学的な大きな問題を含んでいるのだが、しかしそれがそのままヨーロッパのクロマニヨン文化になってゆくことはありえない。
 アフリカ人は、意識の停滞=まどろみからの解放=覚醒として、すなわち眠気が覚める体験として絵を描くということをはじめた。一方ヨーロッパのネアンデルタール人クロマニヨン人は、寒さを忘れようとする昼間の活発な活動の余韻でなおも興奮を引きずったままでいる意識を鎮め、安らかな眠りに誘われる体験として絵を描きはじめた。
 いずれにせよ人が生きてあることは、覚醒=いたたまれなさと酩酊=まどろみの往還運動になっている。そういう振幅の大きさが人間であることのゆえんだろうか。いたたまれなさからの解放がまどろみになり、まどろみからの解放がいたたまれなさになる。
 アフリカの音楽は、まさにいたたまれないようなリズムや不協和音の上に成り立っている。そうしてヨーロッパの音楽は、あくまでこの生のいたたまれなさをなだめる装置として洗練発達してきた。絵を描くことも同じで、その文化生態の違いは、人類の生息域がヨーロッパまで拡散していった100万年前からすでにはじまっていたに違いない。
 アフリカの文化をそのまま移植してヨーロッパの文化になっていったのではない。その違いは、アフリカ中央部で発生した人類が数百万年かけて地球の果てまで拡散していった歴史の上に成り立っている。
 まあ人それぞれの人格の違いだって、その人がどのように生きてきたかという過程の上に成り立っているのであり、そうかんたんに別の人格になれるわけでもないし、長く生きてくればいまさら変えようもない。
 アフリカ人がヨーロッパ人になるということは、ヨーロッパの文化に染まってゆくということであって、アフリカ人みずからがヨーロッパ文化を生み出したということはありえない。ヨーロッパの文化は、アフリカ中央部で生まれた人類が数百万年かけて北の果てのヨーロッパまで拡散してきた歴史や、その北の果てに100〜50万年住み着いてきた歴史の上に成り立っている。つまり彼らは、拡散の歴史の数百万年をかけてヨーロッパ人になっていったのであって、いきなりやってきたアフリカ人が勝手にたちまちネアンデルタール人以上のヨーロッパ人になってゆくということなどあるはずがない。
 ネアンデルタール人が描いたエルカスティーヨの洞窟壁画こそ、現在のヨーロッパ文化の基礎になっているのであり、それは、確かにそのころのアフリカ文化とは異質だった。今どきの人類学者たちがこだわっているような、どちらの知能が発達していたかというようなことなどどうでもいい。人間の世界には、言葉をはじめとしてそれぞれの地域の文化のかたちの違いが必然的任まれてくるし、それは、今どきの凡庸な人類学者たちが考えているような「知能の発達の差」などという問題ではない。それは「歴史風土」の違いであり、そのころからアフリカとヨーロッパでは文化の質が根底的に違っていたのだ。そのころのアフリカ人は、クロマニヨン文化を生み出せるような「歴史風土」を持っていなかった。


 人類の文化は、「覚醒」と「まどろみ=癒し」の、二つの性格を持っている。そしてこの二つの性格の基礎は、数万年前における熱帯のアフリカのホモ・サピエンスと極寒のヨーロッパのネアンデルタールクロマニヨン人との文化=歴史風土の違いとしてつくられた。
 人は、「生きられなさ」の中に身を置こうとする衝動を持っている。それによって地球の隅々まで拡散してゆき、その結果として原始人が生きられるはずのない極寒の北ヨーロッパネアンデルタールクロマニヨン人の文化=歴史風土がつくられていった。それは、生きてあることのいたたまれなさからの解放としての「まどろみ=癒し」の文化であり、そうやって彼らの洞窟壁画は「曲線」や「点線」を志向し、やがては、それぞれが自分を消して全体のハーモニーを生み出すというオーケストラの文化も生まれてきた。
 一方、拡散してゆかないで生きられる地にとどまったアフリカ人は、生きられることのまどろみから逃れるようにして「直線」や「激しい不規則なリズム」や「不協和音」や「騒々しい自己主張=ミーイズム」などの「覚醒」の文化を生み出していった。まあ、そういう文化では極寒の北ヨーロッパを生きることはできないわけで、したがって4〜3万年前に熱帯のアフリカ人がいきなりヨーロッパに移住していったということなどありえない。彼らは、いたたまれなさを生み出すことはできても、それをいやすことができる文化を持っていなかった。
 いずれにせよ人は、「生きられない生」を生きてしまう生態を色濃く持っている。そこに立って心が華やぎ、世界や他者にときめいてゆく。人間的な知性や感性は、その体験ととともに生まれ育ってきた。


 人と人は、生きられない生を生きていることのいたたまれなさやかなしみを共有しながら深く豊かにときめき合ってゆく。
 まったく、ろくでもない大人たちがたくさんいて人間嫌いになってしまいそうな世の中だが、それでも目の前で人と出会えば、われわれはもう反射的にときめいてしまう心模様がどこかしらで起きている。どこかしらで「どうしてこんなにも人や世界が恋しいのだろう」という心模様が疼いている。べつに友達になりたいわけでも恋人にしたいわけでもないが、道ですれ違っただけの人に対してだって「ああ、素敵だなあ」とときめいてしまうことがある。人類の歴史は、そういう体験の積み重ねの上に、「おはよう」という挨拶の言葉を生み出してきた。
 世界や他者にときめいていなければ生きられないが、生き延びるためにときめいてゆくのではない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに自分を忘れてときめいてゆくのだ。それは生と死のはざまに立ったとても危うい心模様であり、現代人のように生き延びようとする自意識の欲望をたぎらせていても体験できるわけではない。彼らは、生き延びるための装置として世界や他者に執着しているが、ときめいているわけではない。そういう執着を「愛」だのなんだのといって自己正当化してゆくのが近代合理主義というのかもしれない。
 家族だろうと地域共同体だろうと、大切な集団などというものはない。その集団によって人と人のときめき合う関係が生み出されるのではない。そんなことはもう、現代社会の家族の崩壊や地域共同体の衰退や学校教育の荒廃などの情況によって、われわれはいやというほど思い知らされている。
 基本的には、人と人のときめき合う関係が集団になってゆくのであって、集団によってときめきが生まれてくるのではない。集団なんかどんどん離合集散していったのが人類の歴史で、そうやって地球の隅々まで拡散してゆくという現象が起きた。
 人類の集団は必ず壊れるし、壊れてもすぐまた新しい集団が生まれてくる。集団によって「ときめき」がもたらされるということはない。ときめき合う関係が集まって集団になってゆくだけのこと。道ですれ違っただけでもときめき合う関係が生まれながら地域集団になってゆく。そうやって言葉は地域ごとに違っていった。
 人と人がときめき合う関係が最初にあるのだ。集団によってときめき合う関係が生み出されるのではない。
 人と人は、「ともに同じ集団に属している」という自覚によってときめき合うのではない。集団からはぐれたその心模様を共有しながらときめき合ってゆく。そういう「ひとり」と「ひとり」が出会ってときめき合ってゆくのだ。
 ともに「ひとり」と「ひとり」になっているなら、廊下ですれ違う社長と平社員のあいだでだってときめき合う関係になれるが、「同じ集団に属している仲間」という意識の上では、どちらの順位が上だとかということにこだわりながらたがいに相手を「生き延びるための道具」というレベルでしか見ていなかったりする。
「ときめき」は、集団からはぐれた「ひとり」の心模様から生まれてくる。人類史においては、その「ときめき」を共有しながら集団になっていった。
 人は、この生からはぐれてゆく「別れのかなしみ」を携えながら、人や世界にときめいてゆく。「はぐれてゆく」とは、「解放される」ということ。この生から解放されることがこの生の活性化になり、「ときめく」ということが体験される。
 まあなんにせよ、ネアンデルタールクロマニヨン人の「曲線・点線」志向も、同じころのアフリカ人の「直線」志向も、ひとつのこの生からの解放の体験として見いだされていった。それは、集団によって見いだされたのではない。誰もが共有している「ひとり」の個人としての「実存感覚」だった。
 人は、生きてあることの「嘆き」から解放される体験として「絵を描く」という行為をはじめる。つまり、そうやって人は「ときめく」という体験をする。
 ネアンデルタールクロマニヨン人が洞窟壁画によって表現していったのは、狩りの成功のためものでも、同盟関係や宗教のためのモニュメントだったのでもない。原始人が極寒の荒野で生きられなさを生きていることの実存感覚の表現だった。そこから人や世界に深く豊かにときめいていった彼らの生態の痕跡だった。
 そういう意味で、エルカスティーヨの曲線や点線で描かれたおそらくネアンデルタール人による洞窟壁画は、とても重要な考古学の証拠だといえる。


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5〜2万年前のネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画は、世の人類学者たちのいうような「集団運営のためのモニュメント」として描かれたのではない。彼らは、人類がなぜ絵を描くようになったのかということをちゃんと考えていない。人は生きにくさを生きる生態を持った存在であり、直線志向のアフリカであれ、曲線・点線志向のヨーロッパであれ、その生きてあることの嘆きからの「解放」として絵を描くという行為を身につけていったのだ。
氷河期の北の荒野を生きたネアンデルタールクロマニヨン人にとっての絵を描くことは、心が癒される(=興奮が鎮められる)体験だったのであり、そうやって洞窟の奥で眠る子供たちに安らかな眠りをもたらすものとして描かれていた。そこは、人類学者たちがいうような、「呪術の場」だったのでも、「同盟集団の代表が集まる会議の場」だったのでもない。何をカッコつけて薄っぺらのことばかりか考えていやがる。ただもうそこは「子供 たちの寝室」だったのであり、子供たちに安らかな眠りを与えてやることがどれほど彼らの生のいとなみに切実なことだったか。大人たちは抱き合ってセックスすれば体も心も温まって自然に眠りに堕ちてゆくこともできるが、小さな子供はそうもいかないし、眠りが浅ければ体力が衰弱してかんたんに死んでしまう環境だった。人類の歴史は、生きられない子供をけんめいに生かそうとしてきた歴史でもあった。
ネアンデルタールクロマニヨン人にとっては、「未来に対する計画性」としての「集団運営」のことなどたいした問題ではなかった。彼らの集団は、つねに離合集散を繰り返していた。そんなことよりも、子供に安らかな眠りを保証してやることの方がはるかに大切なことだった。
人類にとっての「理想の集団」などというものはない。国とか世の中のことなど忘れて目の前の「今ここ」の「まわり」との関係(=連携)に憑依してゆくのが人の自然なのだ。「もう死んでもいい」という無意識の感慨があればこそ生きてある「今ここ」に意識を集中させてゆく(=ときめいてゆく)はたらきが深く豊かになるわけで、そこにこそ、人間的な連携のダイナミズムがある。
人にときめくとは「もう死んでもいい」と思うこと。心の奥のどこかしらにそういう感慨が息づいているから、人は人にときめくのだ。
「もう死んでもいい」と思うことは、「今ここ」を生ききることだ。そういう「今ここ」に憑依してゆくことのダイナミズムこそ、「ときめく」という心模様であり、人間的な知性や感性の本質にほかならない。まあそうやって原初の人類は「絵を描く」ということを覚えていった。
 人類の歴史は、「政治」や「経済」の問題だけで説明がつくものではない。人が生きてあることの実存の問題というか心模様の問題を含みながら歴史が流れてきたのであり、それは、政治や経済の「生き延びようとする欲望」とはまた別の次元の問題なのだ。ひとまずこのことを確認しておきたい。
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