日本人であることの証明・初音ミクの日本文化論(15)

バブル経済の崩壊とともに高度経済成長は終わったし、相次ぐ大震災の果てに原発事故も起きたし、現在のこの国に生きていれば、どうしても「世界の終わりの場に立っている」という気分はついてまわる。個人の暮らしの環境がなんであれ、世の中そのものがそういう気分に覆われている。
いや、いつの時代も誰にとっても、人間という存在が立っている場は、「世界の終わり」以外の何ものでもない。なぜならわれわれは自足した胎内世界を追放されてこの世界に生まれ出てきたのだから。
人が「歴史」というものを考える存在だということは、「ここが『歴史の終点』だ」と思っていることを意味する。
人間ほど怠惰な生きものもいない、とよくいわれるが、「世界の終わり」に立っているのだもの、この先何をすることがあろうか。
それでも、目の前の世界は輝いて立ちあらわれる。そして、この生のこのいたたまれなさは、何かに向かってわれわれを急き立てる。人は「世界の終わり」から生きはじめる。
「世界の終わり」の気分に浸されていれば、目の前の世界の輝きは、「世界の出現」として映る。世界は「存在する」のではない、「出現する」のだ。初音ミクは、そういうことをわれわれに思い知らせてくれる。
初音ミクは、終末感の漂うこの21世紀の日本列島に出現した。

誰もが、初音ミクは女神だ、という。しかし、だからといってそれは「宗教」ではない。非宗教的な日本列島の伝統風土から生まれてきた。
宗教には「神の定め」という「法」があって、それを守ることができない悪いものは許さないのだし、だめなものは滅びてゆくしかないのです。キリスト教だろうとユダヤ教だろうとイスラム教だろうと仏教だろうと、そうやって「ノアの箱舟」をはじめとする「選民思想」が幅を利かせている。
これは「競争原理」の思想であり、それが人間の本性だと彼らは規定している。
ただ、それなのに欧米人は、「移民」を受け入れたり異人種の子供をなんの抵抗もなく養子にしたりしている。つまり、神に選ばれていないものたちを受け入れているのです。それはきっと「神の定め=法」から逸脱することであり、そこに彼らの苦悩の源泉がある。だから「神は死んだ」という言説も生まれてくる。
そしてそういう彼らの苦悩を癒すアイテムとして、日本列島の「かわいいの文化」が「クール」といってもてはやされている。
欧米人だって、心のどこかしらでそうした「競争原理」が人間性の自然だということを疑っている。
「かわいいの文化」は、日本列島の非宗教の伝統を水源としている。それは、この世界のすべてを許して他愛なくときめいてゆく文化であり、日本列島の歴史は、そのような関係性の集団を目指して歩みはじめたのです。
氷河期の日本列島は北から南から西からと種々雑多な人たちが集まってくる人類拡散の行き止まりの地だったのであり、とりあえずもうすべてを許し合って他愛なくときめき合ってゆかないことには集団が成り立たない土地柄で、それが「かわいいの文化」の源流です。
それに対してアラブやインドや中国・朝鮮のような「通過点」の土地では、集団運営に都合のいいものだけを選んでよけいなものはどんどん排除したり奴隷にしたりしてゆくということが可能だったし、それによって彼らは人類最初の「文明国家」を生み出してゆくことができた。
で、北ヨーロッパだって行き止まりの土地だから許し合いときめき合う集団性で歴史を歩みはじめたのだが、アラブの文明国家と陸続きだったから、避けがたくそうした集団性や宗教の洗礼を受けるしかなかった。そこに、今ごろになって「神は死んだ」と叫ばずにいられなくなってしまうようなヨーロッパの歴史の不幸があったし、だから彼らは「かわいいの文化」にあんがい共感を寄せてくる。

宗教と人間性の自然としての「かわいいの文化」は逆立する。その矛盾を抱え込んだまま歴史を歩んできたのがヨーロッパで、彼らはひどく大雑把に許してしまう他愛なさがあり、そんなことをしたら日本列島では村八分でアラブでは死刑だろうというようなことが、あたりまえのようにまかり通っていたりする。しかしそのくせ、駆け引きの場では絶対に譲らないという権謀術数の文化も発達させている。たぶん、それくらいでないとユダヤをはじめとするアラブ文化と対抗することができなかったのでしょう。しかし彼らはけっきょく「追いかけっこ」しているシマウマとライオンと一緒で、ヨーロッパは「移民・難民」を完全に追い払ってしまうことができないでいる。
フランス人はぜったい謝らいないといわれているが、大統領が愛人を持ったり多少のセクハラをしたりすることは大目に見られている。「汝、姦淫することなかれ」という「神の定め」はいったいどこに行ったのか。謝らない文化が成り立つためには、許す文化も必要になる。彼らは、妻や恋人をほかの男に寝取られても、それはもうしょうがないと思う。むやみに嘆きかなしまないし恨みもしない。アラブ世界なら死刑だというのに。
ヨーロッパ社会とアラブ社会はたがいに影響し合って歴史を歩んできたが、両者のあいだには根底的な文化の違いも横たわっている。
ユダヤ人やアラブ人がヨーロッパ社会で生きてゆくのはかんたんなことではなく、彼らがヨーロッパに行くと文化というか民族性の違いに苛立って余計にかたくなになり、かえって必要以上に差別されたりする。差別されるから、ますますかたくなになる。
とにかくアラブ人にとってヨーロッパはお金を稼ぐことのできる場所だから、どうしたって流れてゆく。しかし両者のあいだに超えがたい壁がある。人類拡散の通り道であるアラブ社会には第三者を排除する文化の伝統がある。そうやって純血主義の集団をつくってきた。彼らがヨーロッパに行っても自分たちの風俗・習慣をかたくなに手放さないのは、そのままヨーロッパ人を排除している態度でもある。
日本人なら「宗教なんかさっさと捨ててしまえよ」と思う。外国に行った日本人が思う日本人であることの根拠は、宗教にはない。故郷の景色や人であったり言葉であったり食べ物であったり、人は国なんかかんたんに捨てられるが、「文化」というみずからの実存の根拠はなかなか捨てられない。その「文化」が「宗教」というのでは、なんだかさびしい。日本人は宗教以上の実存の根拠をたくさん持っているし、実存の根拠を持たないことが実存の根拠になっている。ただ故郷をかなしく思い出すことのその「かなしみ=喪失感」が実存の根拠になっている。
日本人の生きてあることの感慨は「喪失感」であり、その感慨を共有しながら集団をいとなんでゆく歴史を歩んできた。そこから「世界の輝き」に他愛なくときめいてゆく。その気配が相手に伝われば、相手も許す。日本人は外交交渉の駆け引きはとてもへたくそなのに、異国に住み着いて溶け込んでゆくことは案外うまい。へたくそだから許される、ということもあるかもしれない。
外国人は、日本列島にやってきて、はじめて人と人が駆け引きしなくてもすむ関係の癒しを体験するらしい。
文明人は、駆け引きする人と人の関係に疲れている。だから、先進国ほど他愛ないときめきの「かわいいの文化」が評価されている。

神(ゴッド)が神であることの根拠は、人を支配し人を裁くことにある。人を支配し裁く文化が、人と人の駆け引きする関係を生み出す。だから、そういう政治経済の駆け引きのことは、もっとも宗教意識が濃いユダヤ人やアラブ人がいちばんうまいし、もっとも政治意識が薄い日本人がいちばん下手です。
でも日本人は、彼らよりも異邦人と仲良くすることができる。
日本人は、アメリカに移住すれば、国も宗教も捨ててその日からアメリカ国民になれる。しかし「日本人である」という根拠(アイデンティティ)は捨てていない。日本人であることの根拠は、生きてあることの感慨にある。国も仏教もどうでもいい。日本人には、ナショナリズムも信仰心もない。
戦前戦後に「移民団」として南北アメリカ大陸に移住していった人々は、今なお二世も三世もみんなで集まって「故郷」という文部省唱歌を涙ぐみながら歌っているらしい。
日本人が日本人であることの根拠は、生きてあることの感慨にある。その「憂き世」という「喪失感」にある。移民たちは、もう故郷には帰れないというその「喪失感=絶望」とともに故郷を思いつつ、目の前の「今ここ」の世界の輝きに他愛なくときめいてゆく。そうしないとそこでは生きられなかった。
この世界のすべてを許し、目の前の「今ここ」に他愛なくときめいてゆく。その感慨は人間なら世界中の誰の中にもあるのだが、宗教やナショナリズムによって封じ込められてしまう。宗教や国家は、「法」に従え、「法」によって生きろ、と強迫してくる。彼らはつねに神や国家に裁かれながら、みずからもつねに世界や他者を裁いている。そうやって駆け引き上手になってゆくわけだが、上手なぶんだけ他愛ないときめきを喪失している。
彼らには世界のすべてを許しながら他愛なくときめいてゆくという体験はない。なぜならそれは、神や国家に背くことだからです。
であれば、日本人の心は神や国家に背いている、ということになる。
そりゃあこんな世の中に置かれていれば一定の駆け引きはして生きてゆくしかないのだが、それでも人は「この世界はすべて許されている」という世界の「はじまり」と「終わり」の事態に対する遠い憧れをどこかしらで抱いているわけで、そこから「かわいいの文化」が生まれてくる。

「魂の純潔」とは、世界のすべてを許しながら他愛なくときめいてゆくこと。人は生きれば生きるほど汚れてゆく存在だからまるごとそんな境地になれる人間なんかいないのだけれど、初音ミクはまさにそういう存在の象徴として登場してきた。
彼らは初音ミクに「魂の純潔」を見ているし、日本人が神も国家も信じていないということは、「魂の純潔」に対する遠い憧れをけっして手放さない集団性の文化を持っている、ということです。
この国を訪れる外国人観光客は年々増える一方らしいのだが、彼らは、この国の集団性というか人と人の関係の文化にはナショナリズムも宗教心も希薄であるところに何か癒されるものを感じているらしい。
今や世界中が国家と宗教からの抑圧にうんざりしている。それによって人と人の関係が壊れてゆくのだし、誰もが壊れた関係の世の中を泳いでゆくことを余儀なくされてしまっている。
日本列島は別の惑星だ、というほめ言葉を贈られることもあるわけだが、ようするにそれはナショナリズムと宗教心の薄い社会であるということにあるらしい。
日本人が日本人であるゆえんは、国家にも宗教にもない。そのことによって、日本文化の伝統が成り立っている。そこに外国人観光客はホッとするものを覚える。
日本人が日本人であるゆえんは、「魂の純潔に対する遠い憧れ」にある。それは、「魂の純潔を持っている」という自覚がないということであり、世界中の宗教者やナショナリストはそれを持っていると自覚している。そうやって彼らは世界や他者を裁いているわけだが、日本人が考える「魂の純潔」は、何も裁かないことにある。すべてを許していることにある。
生まれたばかりの赤ん坊は、神も国家も知らない。「魂の純潔」はそこにこそある。それは、「世界のはじまり」の場であると同時に、神も国家も消えた「世界の終わり」の場でもある。
この社会はたくさんの理不尽なことに覆われているが、それでも日本人はのんきに「魂の純潔に対する遠い憧れ」を紡いで生きている。いやみんながということではないが、そういう人が一定数いることによってこの国の伝統が支えられている。
日本人は、基本的には国家に対する愛着はない。しかしそれでも国家の法からも宗教の法からも解き放たれたところの人と人が他愛なくときめき合ってゆく集団性の文化が民衆社会に機能していることによって治安のよさが生まれたり、外国人観光客の心を癒したりしている。

日本人は、歴史・伝統的にナショナリズムなんか共有していない。
少なくともこの国の民衆のナショナリズムの歴史は、明治維新から太平洋戦争の敗戦までのたった80年だけのことにすぎない。それまでの1000年2000年は、国家も国旗もない歴史を歩んできた。
大和朝廷が生まれてからおおよそ1500年、その間、海に囲まれた島国だから異民族からの侵略を受けることもなく、民衆にとっては「国家」を意識する必要がなかった。つまり、国家や国旗に特別な愛着を持たない方が本格的な日本人なのですよ。
われわれが日本人であることの根拠は、国家にはない。他愛なく初音ミクを祀り上げている、その文化意識というかお祭り気分にある。すなわちそれは、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有している、ということです。
われわれは、国民として結束してゆこうというような歴史を歩んできたのではないのです。明治維新まではそうしないといけないような異民族からの圧力なんかなかったし、もともと国民として結束できるような選別された集団ではなく、雑多な混沌とした集まりにすぎない。
国なんか、滅びてもかまわない。しかしだからこそ、滅びてしまうまで戦うことができる。「世界の終わり」こそ、われわれが立っている地平です。だから、ナショナリズムを持つことができない。国のことなんかはなから意識にないところに立ってみんなで仲良くやってゆく集団性の文化を育ててきた。国の秩序に奉仕しようとする意識は薄いが、誰も排除することなく許し合ってみんなで仲良くやってゆこうとする意識は切実です。国の秩序のために人と人が裁き合うという伝統はなく、すべてを水に流して許し合うのが、この国ほんらいの「世界の終わり」に立っている集団性の作法です。国家意識と宗教心の歴史を抱えてしまっている外国人観光客は、日本人のそういう無原則で混沌とした集団性の文化に触れて癒されている。
日本人の伝統的な世界観には、裁くべき神(ゴッド)も国家も存在しない。