フランスの「現代思想」の代表選手の一人だったジャック・ラカンは二度ほど来日している。
そしてその奇妙な精神分析の眼差しを奈良の古仏に注いだ。1970年の日本でのことだ。
以下、佐々木孝次からの引用であります。
みなさんに回した彫像の写真から、それを前にすればきっと感じられる
ような震えや、こちらに迫ってくるものを、みなさんに与えられるかどうか
私にはわかりません。 (講義の前に観音の写真を三枚回覧している)私が彫像のある小さなホールに入っていくと、そこにひとりの男性が
跪いていていました。....
長い祈りのあと、彫像のすぐ近くまで進んでいきました。彫像の周りには
それに触れるの妨げるものは何もありません。その人は私が計ることが
できないほどの時間、彫像を見つめていました。...それは、明らかに
感動の眼差しでした。その人は芸術的な感性とは無縁にみえるだけに
いっそう驚くべきまなざしでした。
この後にラカンの奇妙な自問が続く。
私はその彫像たちについても、さてそれは男なのか女なのかと問うてきました。
まあ、この手の問いはフロイトの延長線上で思考するラカンなら発しもしよう。
なもので、この後の仏像の眼差しに関する鋭い観察を見過ごさないようにするのは大事だ。
むろん、どの仏像にも目はあります。それは閉じているともなかば閉じているとも
言えません。そこには白目の線と瞳の線だけを残したうつむきの瞼があります。
...この彫像の目の隙間は何世紀かのあいだに消えていきました。それというのも...
ここから先はラカンの真骨頂の欲望の理論につながる。だが、東洋的な腫れぼったい瞼のほの暗い存在に着目するのはいかにも大家らしいといえる。かくて欲望の光学理論が開陳されるなら日本の知識人はすぐさま酔いしれること請け合いであろう。
何にも増してコメントするならば、欲望を否定したそのシンボルである仏像がいつのまにか庶民や尼僧たちの欲望の投射体に変貌するというわけだ。
ラカン=羅漢だなあ。
ちなみにジャック・ラカンの師匠はコジェーヴであり、その師匠の滞日経験にラカンも影響されていることは言い添えておこう。
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