「昔のゲームは良かった」と「昔のゲームは良い」の、悲しい断絶

 先週の日曜は、ニコニコ動画で『クロノクロス』のプレイ動画を見てた。RPGをあまりやらない俺だが、全くやったことがないわけじゃなくて、過去に何本かは手を出して、クリアしてるものも3本ある。『クロノクロス』はその3本のうちの1本だ。今や懐かし、プレイステーション1のソフトである。
 当時は、とても面白いと思った。友人にも遊んだ奴がいたが、彼には「キャラクタのイラストがなんか気持ち悪い」「戦闘がつまらない」と不評。後にネットでこのソフトに関する評を見たときは「神ゲークロノトリガー』を汚したクソ」と罵られていることの多さにとても驚いたが、俺にとっては面白いソフトだった。ストーリーはクロノポリスのあたりから俺の頭では理解できなくなって深く考えるのをやめたのだけど、それでも中盤までそういう難しい話が出るまでの、主人公が生きている世界と死んでいる世界を行き来するっていう流れは、楽しめた。戦闘も、面白いと思った。


 でも、こないだプレイ動画を見てて、はっきり思ったよ。今の俺にはもうこのゲームは遊べないな、って。今の俺がやったら、すぐ「面倒くさい」と放り投げるのは確実だ。キャラクタのレベルアップはよくある経験値制ではないから戦闘ではあまり楽ができそうにないし、2つの世界を何かにつけてはあっちゃ行きこっちゃ行きなんて、ストレス以外の何ものでもない。
 『クロノクロス』に限らず、当時は面白かったけど、今はとても俺にはプレイできないだろうなぁというソフトはある。『バイオハザード2』は、これも同じ建物の中を何度も行き来させられるストレスで一日で止めるだろう。昔は大好きだったギャルゲー、テキストアドベンチャーも、たぶん1周目でバッドエンドになったところで「めんどくせ」と、今ならぽいと放る気がする。


 「昔のゲームは良かった」と愚痴っている光景を、ネットでよく見る。まぁ、ゲームの部分を他のもの、アニメや漫画や音楽やテレビドラマや小説に置き換えても、同じような文句はネットどころか世間のいたるところに溢れているけれど、ここではゲームの話だ。
 でも、そういうのを聞くたびに俺は、いやぁどうだろう、と思うのである。なぁ君、その「良かったゲーム」とやらを今でも同じように遊べるのかい? と。


 ゲーム自体は、メディアの劣化を置いておけば、未来永劫変わることはない。カセットやディスクを3年寝かせておくと読み込みが早くなるとか、アイテムが増えているとか、エンディングが追加されているとか、そういうことは残念ながらこの世界では起こらないことになっている。起きるとしたら、それはその3年の間にハードウェアの方が進化したことによるもので、メディアに記録されているデータが変わるわけではない。
 じゃあ何が変わるのか、3年という時間がなにをもたらすのかというと(一応言っておくと、この「3年」という数字に特に意味はないので、別に2年でも5年でも7年でも好きなものに置き換えて読んでいただいて結構です。1ヶ月とか30年とかなると困りますけど)、まず人間の精神的な成長。そしてもうひとつ、ゲームの品質向上。


 精神的成長、と書くとなんとなく怪しげな感じに思われるかもしれないけども、要は変化である。人間は変化する。好きだったものへの興味が失せてしまったり、嫌いだったものが好きになったり。俺の場合は、昔はギャルゲーばっかりやっていた時期があったのだけど、今ではほとんどやらない。代わりに今よくやるのはFPSだが、そういうアクション性のあるゲームは昔は大の苦手で、ほとんど手を出そうとしなかったものだ。今は、やっぱり下手には違いないのだけど、気にせず遊んでいる。中学生のころの俺を覚えている同級生がいれば、俺の今のゲームの趣味を知れば、その変化にきっと驚くだろう。
 もうひとつの品質向上の方は、これは例えば、同じハードでも、1年目に出たソフトと3年目に出たソフト、5年目に出たソフトでは、違う。それは作っている人がどうとか人気が出てシリーズ化されて予算がどうとかいう部分ではなくて、1年目には無理だと思われていたレベルのグラフィックスが、読み込みの早さが、5年目には実現できていたりする。そこにハードウェアの進化も伴えば、さらにすごいことになる。技術的な蓄積と、ユーザーからのフィードバックの蓄積。そういったものが合わさって、ゲームは進化する。前世代、前々世代の時は「こんなものだ」「これが当然」と思われ誰もそして気にかけなかったようことが、今では問題に、不満になったりする。以前は大歓迎されていたものが、今では必ずしもそうならなったりする。「フルボイスじゃないのか」「コントローラが振動しないのか」「オートセーブもないのか」「豪華なムービーのひとつも入れられないのか」「装備の変更が外見に反映されないのか」「イベントシーンはリアルタイムレンダリングじゃないのか」「見てるだけのムービーばっかじゃあないか」。


 「昔のゲームは良かった」。言うのは簡単だ。ゲームで遊んで楽しかった、という過去の記憶を持つ人間なら、誰でも言うことができる。でも、どうだろう。その「良かった」を「良い」に変えることは、できるだろうか。君がその話題で挙げたゲームを、君は今でも同じように楽しんでプレイできるだろうか。もちろん、ゲームに対してどんな水準を要求するかはプレイヤーにもよるものだし、昔のゲームだと知って遊ぶなら「昔のゲームであるから仕方がない」と、今のゲームなら許せない不満でも割り切って遊ぶことだってできる。が、それは言い換えれば「我慢」ということでもあるのだと指摘されたら、どうするだろう。
 別に、昔は昔だからと切って捨てたっていい。昔楽しかったものが今も楽しめなきゃいけないということもない。こともないが、でも楽しめなくなっているようだと思うと、なんだか悲しい。できればそんなことは、認めたくない。でも、ただ感傷だけで「今も楽しめるんだ」と強がるのは、少なくとも当時は楽しめて大好きだったそのゲームに対してとても失礼なようで、そのゲームにまつわる思い出までも汚してしまうようで、やっぱりできない。でも、楽しめないことを認めると、今度はそのゲームと思い出を捨てることになってしまうようで。でも、でも、でも、でも!


 今日もまた見かける。「昔のゲームは良かったよな」。そうか、それはよかった。大切にしたい、いい思い出だ。ところで君、今はどうなのだ。