お嬢さん


<公式>
ストーリー:1939年の朝鮮半島、森の中の豪邸に新しい女中スッキが呼ばれた。豪邸の主は上月という富豪。彼の姪にあたる日本の華族の令嬢、秀子と召使いたちと暮らしている。屋敷にはたびたび藤原伯爵という身なりのいい男が訪れる。伯爵は秀子の美貌に惹かれ、やがて結婚を申し込むようになる。世間知らずの秀子はとまどいながらも伯爵にリードされていく……..でもすべてには裏があった。上月はひそかに淫靡な趣味を持ち、同好の客を集めて、子供の頃から秀子を見せ物にしていた。藤原伯爵はじっさいは朝鮮人の詐欺師。そしてスッキはかれによって屋敷に送り込まれたスリの少女だったのだ…..

基本的に後味のいい映画である。公開中だしネタバレは避けるけれど、どんよりとやるせない気分で劇場の夜明けを迎えるって感じじゃない。映画は2人のヒロインと2人のしょうもない男、4人のゲーム的なだましあいだ。監督パク・チャヌクは視点を変えてひとつの出来事を語りなおす『羅生門』スタイルで(『現金に体を張れ』『その土曜日、7時58分 』とか)観客もゲーム的な気分に巻き込む。
「抑圧された状況の中で闘う賢明な女性が魅力的。従順な女性が一番魅力がない」と監督はいう。『オールドボーイ』も『渇き』もそうだった。立場的には抑圧されてもヒロインは強い。本作はストリートの知恵を身につけたお手伝いのスッキ、ただの箱入りお嬢さんかと思うと強烈な精神と悪知恵を持っていた秀子。どちらも強い。悩みとかうじうじ要素は一切ない。そして2人は画面の中で存分に愛しあう。『アデル、ブルーは熱い色』に匹敵する愛しあいっぷりだ。ただ、なんだろう、この監督のSEXシーン演出はわりとビジュアル優先で、今回も出し惜しみなく見せてくれるんだけど、ちょっと『ラスト、コーション』にも似て、ことばにできないようなエロさはあまり感じなかったなぁ。

舞台設定が面白いんだよね。1930年代の韓国で、統治国の日本が意外なことに露骨な敵じゃなく、主人公たちの文化的な憧れだったり、束縛された世界から解放されて行きつく、光にあふれる「外」として描かれるのだ。戦後の日本で、アメリカがそういう風に描かれたことはたぶんいくらでもあった。韓国でもポン・ジュノみたいに現代日本ポップカルチャーに親近性がある人はいる。でも占領時をそういう風に描けるのか.....  そこで描かれる日本は伝統的な「和」の世界だけじゃなく、神戸のモダンなレストランだったりホテルだったり、実在するかはともかく中世の城みたいな精神病院だったり。じっさいに日本国内でもかなりロケをしてることが公開されてる。メインの屋敷のシーンの一部は桑名市六華苑の屋敷と庭だ。ちなみに六華苑の主、諸戸家というのは明治の頃から繁栄した山林王。一時は都内の渋谷から世田谷にいたる住宅用地を大量に所有していた。本作の韓国人富豪、上月も一代で財をなした男で、森の中の屋敷は門をくぐっても家まで車で一眠り出来るくらいに広大という設定だ。そんな彼の家は、英国風の屋敷と和風の数寄家がならんだもの。女中たちのすまいは韓国風だ。六華苑の庭園は映るけど、屋敷の外観はブルーバックで隠し、たぶんCGでレンガ作りの建物にされている。

パク・チャヌクは物語を描くときも省略なく直截にいく。誇張気味になることもあるし、分かりやすさ優先の漫画的に見えるときもある。どことなくキッチュにみえる描写とかもときどきある。漫画的といえば、物語中の悪の根源、上月 がコントめいた老けメイクなのが謎だった(きびしい減量の役づくりで臨んだらしいが)。いや、日本でも50年以上前の名作(コメディじゃなくね)で、やっぱりコントというか舞台劇調の老けメイクのおじさんが出てくることはある。でもいまの技術でなぁ.... あとお嬢さんが地下ショーで日本髪になった時の巨大なフォルムね。この映画での日本文化の扱いはときどき「ガイジンの誤解込みのキッチュな和風」テイストを狙ったかのような、それでいてお金がかかった美術でもあるような、『キル・ビル』を思い出すのだった。面白さのけっこうな部分はじっさいの日本語で話されるセリフもふくめて、奇妙にハイブリッドな文化の香りだと思う。

富豪の上月は日本文化に同一化したくて、日本語をしゃべり、和風の家を建て、日本の春画や春本をひたすらに集める。幼い頃に日本から連れてこられた秀子は自分の目的のために伯爵になびく世間知らずの女のふりをする。彼女と結婚し家から連れ出そうとする藤原伯爵は、じつは済州島のまずしい家で生まれ、日本で商売と言葉を覚えた詐欺師。そしてほんとうはスリだけど詐欺師と組んで女中のふりをして屋敷に入り込むスッキ。全員がそれぞれの思惑や思いにしたがってアイデンティティを上塗りして演じあう仮面劇のなかに「真実」として愛がおかれるのだ。

渇き


<予告編>
ストーリー:孤児だった神父(ソン・ガンホ)は病院に勤め、助からない患者たちにやすらかな死をもたらすべく祈る。神父はある目的のためアフリカに渡った。致死性の伝染病の人体実験に応募したのだ。罹患したものは必ず死ぬ。かれも大量に吐血して絶命した。ところがその直後にかれは甦った。奇跡の存在になった神父は病人たちの救いの象徴になる。でもその体は生まれ変わっていた。定期的に人間の血を飲まないと死んでしまうヴァンパイアになっていたのだ。神父は幼馴染のチョゴリ屋へ行く。病弱な友だちと、チョゴリ屋の養女から妻になったテジュがそこにはいた。義母から下女扱いされている彼女に同情する神父にテジュも惹かれていく...

神父がヴァンパイアになる。血を与える側に仕える人が血を求める人になる。伝染性の病気と絡めてそこまではシリアスに行く。神父がくらす一室には聖セバスチャンの絵が意味ありげに置いてある。たしかにこれから起こるのは、自己犠牲と傷ついては再生する肉体の物語だ。
ソン・ガンホは悪魔的な欲望(それが生への執着でもある)と聖職者としての良心のあいだで悩む神父を抑制的に演じる。ヴァンパイアモノのセオリーで二枚目俳優を置いてしまったらそうとう軽くなっていたところを、彼の重量感と何か背負っている感で見せていく。
かれと対置されるのが、パク・チャヌクならではの「抑圧されていたけど闘う賢明な女性」、旧友の妻のテジュだ。韓国の女優にはちょっと珍しい南方系の顔で、ぼさぼさ頭とひょろっとした手足にぎょろりとした目つきが気になる。テジュは再会した神父を気に入り、あっという間に戒律を破らせてしまう。『薔薇の名前』の修道士の時と同じライディングポジションだ。主人公は自分が吸血鬼だと告白する。生きた人間の血を飲む神父におびえたテジュは、でもかれを受け入れる。そして2人は引き返せない共犯的な関係になっていく。
神父がチョゴリ屋に出入りするようになってしばらく、病弱だった夫は死んでしまう。病気でじゃなく。そして神父とテジュは夫の死に消せない罪悪感を感じるようになる。で。そのあたりから本作は伊藤潤二めいた、ホラー風味なのにまじめか笑わせにかかっているのかわからない過剰な表現がではじめるのだ。まず夫の死問題。神父とテジュは夫がいなくなったのをいいことに家で一緒に寝るようになる。ところが罪悪感のせいで水死した夫の幻影に悩まされる….その描写がびしょびしょで不気味な笑顔をみせる夫が「どーん」という感じであちこちに現れる、というものなのだ。しまいには重なった2人にはさまれつつ不気味な笑顔を見せる。

そして息子を失い被害者となった母。もともとどこか怖さをもった四角い顔の彼女は、意識があるのかわからない麻痺状態になり、しかし家のなかのどたばたを常に見ている。家のあちこちで無造作に転がされつつ、目だけは「ギンッ」とこっちを見ている感じ。これも楳図かずおのアップが怖くも笑えるのに似て、やはり境界線上にある表現だ。
さらにほとんど漫画的といっていいのが、ヴァンパイアが圧倒的な身体能力を身につけてしまうのだ。いやまあそれは設定なんだからいい。吸血鬼もののお約束に、美女が寝ていると、高い窓からやってきて部屋に侵入し….というのがある。それを数メートルは楽に跳躍できる神父はジャンプでこなすのだ。腕力も超人的になる。後半でヴァンパイア同士があらそうシーンが出てくるんだけど、2人で夜の街、屋上をぴょんぴょん跳ねながら追いかけっこしたり、重量バランス関係なく人を軽々と持ち上げたりする。ワイヤーアクションだったり特殊効果だったりするんだろうけど、「超高性能になった身体パーツ」の描写がぜんぜんないから悪い意味で漫画っぽいのだ。
おはなしは最初とだいぶトーンが変わっていき、テジュは抑圧された女からファム・ファタールへと変身し(それにしたがって羽化したみたいに美しくなり)、神父はどんどん受け身で抑制的になっていく。ラストは吸血鬼もののお約束をふまえる。一種のジャンルムービーだからポランスキーのこれとか、『ぼくのエリ』とかと同じくそこを効果的につかうものなんだろうね。お約束でありつつ、ちょっと切なく美しいシメになっている。