牧原日記


南京陥落後一週間企画
収録 『南京事件 京都師団関係資料集』 井口和起・木坂順一郎・下里正樹 青木書店


牧原信夫・・・第十六師団歩兵第二十聯隊第?機関銃中隊*1


日記 P148〜152  ※誤字修正

十二月十三日
十三日の朝はあける。今日で西山高地の陣地を撤退し午前五時此の高地を出発。南京街道路にでる。途中敵の遺棄死体や手榴弾及小銃弾が無数に捨てられている。話では、午後一時十一中隊の将校斥候*2が出発す。十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にかかり、三名即死し六名が負傷したそうである。道々には地雷の掘りおこした穴がいくつもある。亦敵が敵の地雷にひっかかり手足がとび無ざんにも真黒になって四名死んでいた。大隊は城門手前四百米位の所にある遺族学校にて朝食をとり八時過ぎに出発し城門手前百米位の土手にて休憩する。話によると攻城砲の破片が三百米も後方に飛んで来たという事だった。
新聞記者も続々と嬉しそうに自動車や徒歩にて入城する。午前十一時昼食を同学校で終り、中山門に向かう。大隊は師団の予備隊となり、一時兵力を西山の麓に集結(大きな建物があったが名前は忘れた)。今晩は此の地で一泊する事になった。九中隊は紫金山の残敵掃蕩、十二中隊は当部落並に附近の警戒にあたる事になった。MG中隊も一ケ分隊が十二中隊に協力する事になった。MG中隊及大隊砲は大隊主力と離れ貧しそうな家に泊まる事になった。家の中には馬が一匹死んでいた。支那人苦力は熱心によくついて来て呉れた。次の様な隊長訓示があった。
連日にわたる悪戦苦斗に諸子は誠に御苦労であった。光輝ある軍旗に一層の光輝をそえた。
戦車隊も九時頃から掃討に協力出動した。
昼間より大・小行李部隊も盛んに入城している。
[欄外記入]
自十二月九日至同月十三日南京攻略戦に参加。同日南京入場。


十二月十四日
午前七時起床。午前八時半、一分隊は十二中隊に協力。馬群方面の掃討に行く。敵も食うに食なくふらふらで出て来たそうだ。直ちに自動車にて出発す。
しかし到着した時に小銃中隊*3だけで、三百十名位の敵の武装解除を終り待っていたとの事。
早速行って全部銃殺して皈って来た。
昨夜はこの地にいた小行李部隊も敵の夜襲を受け戦死六名出たそうだ。
午後二時大隊は山岳部の掃討に行く事になった。何でも五、六百の敵が現れたため師団命令により行動をおこした。行程は約七里位。鉄道に沿い揚子江の方に向う。海軍部隊も看護兵が若干トラックにて来ていた。その兵隊達が言うのには、陸軍さんは暫く休んでいて呉れ、今度は海軍が英国をやってしまうから、と力んでいた。岔路口*4手前約一里半の所で九中隊は一ケ分隊の兵力で約千八百名からの支那軍を連れて皈って来るのに出会った。敵は食ふに食なくふらふらしていたのも可愛想であった。また鉄道線路の沿道にあちこち敵の死体が転っていた。また鉄道線路のすぐわきの所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵隊の夜襲を受け全滅していた。
此の地で約三十分休憩す。手榴弾、小銃弾、拳銃弾、変り種では鍋、書類、衣類、茶碗、それに衣類等々が所せましと散らばっている。午後六時同村に到着。死骸のある地から此所迄は全く地雷が多く埋られ危険せんばんだ。或る場所では友軍の自動車がひっかかり、また敵の敵の地雷にひっかかって三名位がちりちりばらばらになり、それ等の着物の一部が電線にひっかかり黒こげになっているのもあわれな光景だ。また六名の敗残兵の六名が捕えられ銃殺された。ただちに部落の掃討をやったが唯の一名も居なかった。食事を準備し約二時間休憩して帰途につく。途中いたる所に地雷が埋もれているのを工兵隊が処理したと言ってはいたが、一発でも残っていたら一大事である。幸い無事だった。
今一つの悲惨な光景は、とある大きな車庫の様な建物に百五、六十名の敵兵が油の様なものをふりかけられ焼死隊となって扉から一生懸命のがれ様ともがいたまま倒れていた。而し今は僕達いくら死体を見ても何とも思わなくなった。
午後十一時五十分無事到着


十二月十五日
午前八時起床。午後二時整列。師団の入城式に参加するために第三大隊のみ師団長閣下を迎えての入城式に参列す。閣下は後刻聞いた話だが負傷して居られたそうで、肩には徴発したコップをかけておられた。
二時から四時までの間は門は一切通行禁止され堂々入城す。さすがは敵の首都、立派な建物が軒を並べて堂々と建っている。また布川一馬君に出会う。第二大隊は飛行場附近に整列していた。
城内は友軍の寛大なる処置で爆撃は城外に限られていた様で、城門及その附近はひどく碎かれていた。先ず交通兵団のある場所にて一服やり、自分は石川軍曹と共に設営に行く。国民政府の参謀本部国都劇場といひ、蒋政権のそれがうかがわれる。
新しいのでは一昨年から建築し始め本年九月に竣工したばかりという建物もあった。入門してより約一里程前進したとある建物に泊る事になった。
相不変部隊を誘導に行き、無事誘導する。
午後四時半、全員建物前に揃い、夫々徴発をして各宿舎につく。
指揮班も手早く準備を終り、全員床に入る。敵の首都南京で安らかに故郷の夢を結ぶ。明日の身はまた明日。
三、四ヶ所で火の手があがるのが見へた。


十二月十六日
午前十時中山門前に整列完了。本日各大隊は掃討に出る。十二中隊井上中尉殿の指揮下に入る。左縦隊となり出発する。中山門を出て過日来悪戦苦斗して前進した道を逆に進む。昼食後概ね大城山から南京に攻め入った各部落を次々と国旗を先頭に前進す。国旗は友軍機えの識別ともなる。
十二中隊、機関銃、大隊砲、それに通信の順にて鉄真街、趙家村、蒼波鎮、城頭廟、定林−王家街道を王家街に向け前進す。
午後三時三十分、王家街に到着。
道中国旗を高々と揚げ、逃げる物は逃げよ、我はおわずと言った誠に陽気な討伐振であった。
亦多くの敵の焼死体があちこちに転っている。真黒にこげた死体、または黄疸の様に真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終って見ると可愛想である。何所の部落に行っても若い男は一人も居ない。蒋介石も血迷って全部徴兵で連れて行ったものと思われる。
豚一頭を殺して早速料理して食う。鍋の徴発には如何にも困った。苦労した。一端先取りしていた宿舎は七中隊にとられて残念だった。八時半命令受領に行き十時寝に就く。


十二月十七日
聯隊は軍の南京入城のため南京に皈還する。
右縦隊は南京警備のためだろう。昨夜南京に皈ったとの事。左縦隊は午前八時半、謝塘を出発。部落を通過毎に火をつけて南京に向う。行軍序列は十二中隊の尖兵←200m←十二中隊、機関銃、大隊砲、通信の順。十時半から三十分間野菜徴発が許され、各中隊は徴発に飛び出す。自分も勿論行く。歩兵学校にて昼食をとり一時間半の後出発す。中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香の宮)*5が入城されるため一時通行禁止となり、その後各中隊毎に南京市外に皈る。宿舎に着くと同時に家からの便りを受取った。
色々と書いてあり案内一同元気の由何より大変に嬉しかった。疲労も一度にどこえやら。
今夜もニ、三ヶ所に火の手があがっている。南京市内には多くの便衣隊がいる模様。夜の外出は一切禁止。


十二月十八日
午前六時半起床。自分は岡山と炊事当番であった。
八時に食事を終る。皆の者は何時とはなしに徴発に出る。自分は事務室に残る。午後一時から陸海合同の慰霊祭が飛行場において実施され、三大隊は聯隊の代表で式に参列する。炊事当番は居残る。その間に巻脚絆の修理や洗濯をする。支那人苦力が一人で一生懸命やって呉れたので大助だった。五時に食事を終る。
あめ、糯米、唯米、それに醤油等色々と徴発品があったので当番も大助だった。食事終了後へ故郷への便を書く。朝から小雪が降っていて大変に寒い。


十二月十九日
午前七時起床。八時半食事を終え、自分と大槻上等兵は岡本少尉の指揮にて副食物の徴発に行く。
南門を通過し城外に出る。而し城外にも十三師団*6の各隊がいるため駄目だった。約一時間休憩しその家に焼いて皈る。話に依れば下関の山の砲台は殆んど射撃せずにそのまま弾薬と共に占領したと言っていた。二時同所出発、城内に入る。此の地方にも相不変遺棄死体が転っていた。城内においてナッパ、ニンジン、豆炭を三車輌に満載して皈る。また途中、雑貨商店に入り手帳、鉛筆、それにインクを徴発して、午後五時半中隊宿舎に皈る。
今日は中隊で使っていた支那人苦力を一人皈してやった。彼には妻があるのだから可愛想であった。


解説 P506〜507

牧原信夫氏は一九一五年七月二十日生れ、京都府舞鶴市在住。京都府舞鶴中学校卒。農業。以前の満州での現役兵体験を持っているが、当時は二十二歳の陸軍上等兵であった。
牧原日記は縦ニ○五ミリ・横一五○ミリ大のクロス張り表紙、あるいは分厚な大学ノートに記され、ところどころに当時の写真、絵葉書、地図、戦闘要図、雑誌・新聞の切り抜きがはさみこまれてあり、全六冊から成っている。

*1:MG(機関銃)中隊のようだが、中隊名が不明

*2:将校(少佐以上)を長として、必要な下士卒をつけて敵状・地形などの捜索に出す斥候のこと。

*3:中隊編成の中から、軽機関銃や擲弾筒などを除いた小銃班だけの中隊。

*4:原文では「嶽路口」

*5:朝香宮鳩彦中将で、一九三七(昭和十二)年十二月二日、上海派遣軍司令官に親補されている。

*6:歩兵第二十六旅団と第百三旅団からなる仙台の師団で、師団長は荻洲立兵中将。上海の戦局の緊迫で、一九三七(昭和十二)年九月九日の第六次動員下令により第九・第十八師団や台湾守備隊などと共に上海派遣軍として動員され、南京戦にも加わっていた。