死に向き合う
ひいばあちゃんが死んだ
ウチは父が晩婚だったせいで、父方の祖父母は自分が物心つくまえに亡くなってしまった。母方の祖父は両親が結婚する前に他界し、自分にとっての「おじーちゃん、おばーちゃん」は母方の祖母が一手に引き受けてくれてた。その祖母も癌との長い闘病生活の末、数年前に亡くなったのだが、それが学部の卒業式の僅か10日前で、葬儀には参列できなかったのだ*1。
だから自分はまだ近しい人の死に触れたことはない。順当にいったら次は両親のどちらかなんだろう。人生最初が親って少々荷が重すぎや過ぎないだろうか。ちゃんと向き合えるだろうか。元増田はひいばあちゃんにいい経験を貰ったと思う。羨ましい。
*1:卒業式の二週間前まで見舞いに通った。後ろ髪ひかえれる思いで再渡米したのを今でも覚えてる。卒業式の写真ができて「あぁでもこればーちゃんには見せられなかったな。間に合わなかった」と思ったときに死を実感した
猫語で
道路を横断中に立ち止まって接近中の車をじっと見るというのは、猫には往々にして見られる行動である。それでは彼らも猫並みの知性の持ち主ばかりなのかどうか。だとすれば、京大の講義は猫語で行わねばならぬ。まあ、工学部や理学部・農学部といった入試に国語がない人らが横断する今出川通りで、そういう大学生が頻繁に出没するのはまあ仕方ないと思う。彼らはたぶん法律の文面が読めないんだろうから。しかし、あろうことか、いちど東山近衛(北東が京大教養部・北西が医学部基礎・南西が京大病院)の角で大学生らしき男が自転車で救急車の目前に飛び出して横断していったことがある。こいつの写真が撮れていたら学部長に送りつけて処分を求めるところだったのにと、今でも思う。小児科の卒試受験資格永久停止とか。残念である。
抗議の意味を含めてココに一部転載。バカにつける薬はないが、一秒で生死を争ってる救急車を妨げる奴に猫語で呪いをかけるようにしよう。