東日本大震災・名取の報告(4/7)




4月7日の地震のあとのクリニックと事務所


7日の朝に、田中先生について400人近くの方が避難されている避難所に行きました。前日に緊急で呼ばれて診察に行ったおばあちゃんの様態を確認するためでした。そのおばあちゃんは人通りの多い通路の片端で寝られていました。枕元には緑色の避難灯があり、こんな場所では休めるはずもないよね…とため息をつきました。田中先生はおばあちゃんに丁寧に声をかけて、クリニックの開院に間に合うようすぐに帰りました。


私は肩もみ&サラダのニーズを聞くため避難所をまわりました。1カ所目はモバイルクリニックを実施していた小学校に行きました。すると私のような訪問者が体育館の舞台前の受付で列を成していました。対策本部では個々の避難所について管理しきれないことも多く、避難所には日替わりで市の職員さんが1人来ていて、支援物資やイベントなどの調整、問合せ対応をしています。私も順番を待ち、やっとその職員さんと話すことができました。職員さんは予定がいっぱいつまったカレンダーを見せながら、あっさりとした口調で断られました。避難されている方は求められていないという代弁であるならそれでいいのですが、職員さん自身も疲れが極限になっていて避難所のコーディネートが難しくなってきているのではないかと気になりました。緊急事態中のコーディネートに慣れた人などほとんどいないことを考えると、こうなるのも当然だと思いました。中にはごくわずかに阪神大震災新潟県中越沖地震で被災されたり支援されていた人たちがいるかもしれませんが、ほとんどの人にとってこの被災地での何もかもが初めてでありながら、あまりにも巨大な試練を強いられている状況だと思うと、ほんの小さな癒しでもいいからここに届きますようにとそう願うばかりです。


次の避難所もモバイルクリニックを実施していた小学校でした。ここでは市の職員さんが避難されている方の中で組まれている料理班の班長のお母さんを紹介してくださり、ぜひ野菜が食べたいとおっしゃられたので、火曜日にさせてもらうことを約束して帰りました。続けてもう一カ所、それまで行ったことのなかった小学校にお邪魔しました。食事の事情をうかがうと、市の職員さんが、炊き出し設備も使えるようになっておらず、また外部からの炊き出しもあまり来ていないことを丁寧に説明されました。そこには3日後の日曜日に来させてもらうことになりました。避難所の状況や雰囲気は、地理的条件などにより左右される訪問者の数や駐在している職員さんの対応の仕方、そして住んでいる人たち自身による自治会のあり方など、あらゆることが影響していて、避難所により全く異なることがわかりました。


クリニックに戻って、実施が決まったことを報告すると、みんな喜んでくれました。夕食をとり、お風呂に入り、ミーティングをしたあとは、たいてい遅くまでニッコー本部へのメールなどを打っていました。地球のステージのスタッフのみなさんも大抵同じか、私よりさらに遅くまで仕事をされていて、この日も事務所で4人がパソコンに向っていました。11時46分、いつもより大きく揺れ始めました。すぐに速報を確認するためテレビを付け、寝ていた看護士さんたちは事務所の部屋に飛び込んできました。揺れはどんどん激しくなり、がちゃんがちゃんと物が倒れはじめ、先生は私たちを抱えこむように支え、揺れる壁を手でおさえながらなんとか立っていられるくらいでした。揺れがおさまり、すぐに荷物を取った後下りた順に2台の車に分かれました。けれど田中先生が来ませんでした。あたりは真っ暗で探しようもなく、とりあえず車で5分の市役所に逃げました。親、陸前高田のメンバー、京都の上司、そして田中先生に電話をかけましたが、携帯電話は発信ができず着信のみが受けれる状態で、お互いの安全が確認できるまでは時間がかかりました。避難して逃げてくる人たちの中には、大きなリュックを抱えている人も多く、もしかしたらしばらくクリニックには戻れないかもしれない…という不安がよぎりました。そして、避難所で3月11日の恐怖が甦った人たちを思うと、そのことが怖くて心配でなりませんでした。あっという間に津波到達時間になりましたが何の気配も感じず、本当に津波なんて来るのか、こんなところにまだ居てる必要があるのか疑いました。あの日たくさんの人が津波が来ているなんて信じられなかった気持ちが本当によくわかりました。


地震が起きてから1時間半ほどが過ぎたころ、先生が帰ってクリニックを開けると言いました。田中先生は避難した先で緊急処置をしているところで、看護士さんはその避難所とクリニックと二手に分かれました。クリニックは発電機で明かりを灯し、開院していることを知らせ、すぐに自衛隊の方が田中先生が観ていたおばあちゃんを丁寧に運ばれてきました。私は2階にあがり、ラジオを流しながら、懐中電灯で事務所を掃除しました。看護士さんたちが仕事を終えて上がって来たのは3時くらいだったと思います。怖いので男女の部屋をしきっていたカーテンパテーションを全開にし、その数時間の間の恐怖や次地震が起きた時の逃げ方などについて、興奮状態でみんなで話していました。そしてみんなでお菓子を食べました。お腹がすいているような気もしたし、食べるものがある安心感が嬉しかったからかもしれません。頭はハイなのに、体はくたくたでした。


本当に長い夜でした。震度は6弱。阪神大震災のときもものすごく怖かったのだけは覚えています。ただ、揺れがおさまった後に、さらに津波のことを考えないといけないことが、如何に恐ろしく辛い時間かということを痛感しました。