狂気と犯罪
- 作者: 芹沢一也
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/01/21
- メディア: 新書
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隔離といえば伝染病が思い起こされるが、まさに伝染病の隔離と期を一にして精神病の隔離は公にされ始めた。精神病を病んだ者が世間を騒がせる事件を起こすたびに、隔離の轢死は進んでいった。まさに伝染病が広がるのをおそれるかのように、精神病者による犯罪が広がるのをおそれて。
「赤レンガ」にしても、T研究会にしても、その運動の方向性が全くわからずにいたのが、ようやくわかった。愚かである>僕。彼らの運動の真の目的を理解した気がしているが、やはり僕は僕の道を行こう。僕は精神科医であると同時に小児科医だ。そして薬物療法に長けてきた。この立場にいる人間は決して多くはない。多くの運動瀉たちが病との共存を謳っているが、僕は違う。病の撲滅が目標だ。子どもも大人も、精神病から解放される日が来る。そう信じている。それだけのパワーを薬物療法は持っている。
こう書くと薬物療法一辺倒に思われがちだが、意識としてはそうである。なんの、話を聞いただけで治せるものかい、って気分。もちろん、必要だと感じれば〜時間の余裕があればだが〜30分でも1時間でも話し込む。でもそれは背負い込んだ荷物を少ししか軽くしない。薬物治療には発症を予防する力と、重症化を抑制する力がある。現実に治療内容によって重症化したケースも経験したし、逆に重症化したケースを軽症化できた自負もある。たかが薬物、されど薬物である。
かつて、軽症の精神疾患である神経症は、重症のそれである精神病とは全く別物だとされてきた。心身症もそうである。ところが、現実には連続的な変化を起こす。つまり、心身症だと思っていた患者が、ある日突然精神病になったり、精神病でもう治らないかとあきらめていた患者が、神経症化して病気から抜けていったりする。その変化を起こしうるのが薬物療法であり、心理療法である。
一般の精神科医たちは、たぶん薬物療法に限界を感じている。そして心理療法や作業療法に目を向ける。でもそれは薬物使用理論の間違いによる限界なのだ。具体例を揚げずに説明するのは難しいが、日本の精神科医たちの薬物使用法は二極分化される。一方の極は多剤併用大量療法〜いわゆる薬漬け〜であり、もう一方はごく少量療法である。もう少し具体的に言おう。精神のガンとされる統合失調症は、重症とされるためにとにかく大量の薬を投与して病勢を削ごうとする。一方で軽症の神経症は、フロイト先生の理論が未だにはびこっており、個人の人格の問題であるから薬物は無効と考えられ、有効量まで増やさずに、ごく少量を長期にわたって投与されている。これは誤りだ。精神病でも少量で有効なケースは多いし、神経症でも大量に投与すれば症状の消失や完治が望めるケースもある。日本の精神科医たちはもっと薬物療法を学ぶべきだ。
僕はいつも、この人が社会生活できるにはどうしたらよいか、を考えて治療している。あるはごく平凡な社会生活を送っている姿を想像しながら治療に当たる。他の精神科医たちはどうなのか?。狭い世界で生きているので知るよしもないが、せめて平凡に過ごす姿を治療目標にして欲しいと切に願う次第である。★★★(興味のある方は画像をクリック!)