『潮騒』(1975)

三島由紀夫の文学的な匂いは殆ど皆無。神島の風俗も冒頭にナレーションで説明し、女衆の水汲みが話として使われている意外は殆ど無し。ましてや自然の美しさなどはまるで描かれていない。島で生活に苦労しながらも手を取り合って生きる女、海女の姿は描かれているが若干である。

●場面毎に流れる音楽が酷い。まるで火曜サスペンス劇場などTVドラマでやたらと場面を盛り上げようと流されていた五月蝿いBGMと同じ。この音楽のあてがい方はちょっと今まで見た事、聞いた事がないくらいおぞましい。井戸のセットや山の中の様子などがいかにもセットと分かる安っぽさ。セットは手抜きをしているのかと思うほどで、まるで子供向けの怪談TV番組のセットと同じのような安っぽい作り。

●やはりこれは山口百恵三浦友和を使った大衆向けアイドル映画ということか。三島文学の匂いも香りも全く感じられない。

●焚き火を挟んで山口百恵三浦友和が雨に濡れた体で向かい合っているシーン。『潮騒』と言えば焚き火と裸の男女となってしまっている。観客の下半身とエロ趣味を刺激して注目度を上げるため、あざとくこのシーンが多用されたため、原作においても映画においても、このシーンが『潮騒』を代表するイメージになってしまっている。これは映画、映像の弊害、広告宣伝、プロモーションの悪害。本来あるべき原作文学の情景を歪める要因になっている。ある特定の場面が、原作文学、映画の主題とは違った方向に見た者のイメージ想起させ、主題から離れたその特定のイメージが人々の想起する原作、映画のイメージを固着させてしまっている。

●当時16歳位だったトップアイドル山口百恵のほぼ丸映しのセミヌードは、結構刺激的でドキドキする。劇場公開時は相当に話題になったのだろう。スタイルどうこうというよりも、可愛らしさと美形が半々に丁度よく混じり合い、しかも幼さがあるようで、影もある。やはり山口百恵は絶世の美人だとかというのではないけれど、人の気持ちを引き付ける魅力か魔力のようなものがある。

●山口、三浦のまだまだな演技に比して、その母親や父親役を固める熟練の役者の演技の見事さが画面を引き締めてくれていたからこそ、この映画なんとかダレずに引最後まで持ったというべきかもしれない。
初井言栄(新治の母)、丹下キヨ子津島恵子などの母親役や海女役をしていた高年の女性陣は熟練の演技。中村竹弥、有島一郎といった男たちも一格上の役者。こうしてみるとこの映画は二人のアイドルで引っ張って、脇役に熟達の役者を揃えた事でなんとか成り立った作品だと言えるかもしれない。

●監督の西河克己吉永小百合版『伊豆の踊子』(1963年)までは良かったが、その後の失敗もあってか、TV番組やアイドル映画の監督という立場にどっぷり頭のてっぺんまで浸かって、本当の映画、映画たるべき映画、格調のある映画を撮るというよりも、如何に耳目を集め、如何に大衆に受け、如何に動員と金を稼ぐかという映画を撮る監督になってしまったかのようだ。その方が実入りも大きかったではあろうが、映画監督としての大事なものは失ってしまった、いや捨ててしまったのではないだろうか。この監督は言ってみれば今のTV出身のTV映画監督の走りのような人だったのだろうか。

西河克己 (1918-2010)》
●『青い山脈』『伊豆の踊子』(1963年) 主演:吉永小百合
●『伊豆の踊子』(1974)『潮騒』『絶唱』(1975年) 主演:山口百恵三浦友和

●『潮騒』は過去5回も映画化されているようだが(第1作:1954年 、第2作:1964年、第3作:1971年、第4作:1975年、第5作:1985年)一番認知度が高いのはこの1975年版か。1971年版は森谷司郎が監督をしているというのに殆ど名前が通っていない。というか過去5回も映画化されながら名作と呼ばれるような作品が出ていないという事は、題材として取り上げやすいが、映画にはまとめ難い原作なのかもしれない。

●『伊豆の踊子』や『潮騒』の吉永小百合山口百恵に代わる女優としては、長澤まさみならぴったりだなと思っていた。長澤版の『伊豆の踊子』や『潮騒』なら観てみたいと思っていたが、もう設定年齢は越えてしまったしこれは叶わぬだろうな。