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落書き:公園トイレに「反戦」 外観損ね有罪判決 東京地裁

昨年4月、公園の便所に「反戦」と落書きし、建造物損壊罪に問われた木下正樹被告(25)の判決が12日、東京地裁であった。木口信之裁判長は「外観を著しく損ね、再塗装には約7万円の費用が必要。被害は軽視できない」と述べ、懲役1年2月、執行猶予3年(求刑・懲役1年6月)を言い渡した。
木下被告は判決理由の朗読が始まると、証言台のマイクの一部を裁判官に向かって投げ付け、退廷を命じられた。職員に取り押さえられるとスプレーをまいた。

やばい、かっこ良すぎ木下被告。反戦主張しつつ法定で暴れるシュールさ。
んでまあ木下被告応援サイトであるGraffiti Anti-War Solidarity Centerでは

第6回公判(判決公判、2月12日(木) 午前10:00~)にて
「懲役1年2月 執行猶予3年」の不当判決

の文字がデカデカと。何故か木下被告が暴れたことに一言も触れていないところが木下被告同様シュール。
ここでシュールな木下被告の裁判での意見陳述を幾つか抜粋。まず第一回公判本人意見から。

私が書いた落書きについて、検察は「建造物損壊」という罪で起訴しています。「建造物損壊」とは、「建物を使用不能にする」、「外観・美観を著しく損ねる」、といった罪であると聞いています。まず使用不能という点については、事件前も事件後もトイレは使用することができているので、この裁判とは関係がないと思われます。
 私が訴えられている問題の中心は、「外観・美観を著しく損ねる」という点です。これは、トイレの外観が、それを見た人に不快感を与えるということだろうと思います。事件後、公園を管理する杉並区公園課の課長は、せっかくのモダンな建物が私の落書きによって台無しにされた、と言っているそうです。確かに私が行った落書きによって不快な思いをする人はいるでしょう。戦争賛成派の区民が、子供を連れてこの公園を訪れたなら、不快に思うでしょう。
 私が問いたいのは、まったく不快な要素のない清潔な公園を実現するためならば、人を長期間監禁したり人の生活をめちゃくちゃに破壊することが正当化されるのか、ということです。杉並区の公園課の課長に、また警察に通報した住民にも問いたい。公園のトイレの外観を保持するためには、私のような区民は痛めつけ追放したいと考えるのでしょうか。もしもそのような考えをもっているのであれば、民主主義とは相容れない危険思想の持ち主であると断罪せざるをえません。

自分が、「外観・美観を著しく損ねる」行為をしたという認識がありながら通報した住民を他人の思想を受け入れない危険思想の持ち主だと断罪したシュールな木下被告。

私たちが暮らす街には、たくさんの表現が氾濫しています。そのなかには、不快な表現も数え切れないほどあります。商品の広告やチラシ、電車の吊り広告などに、腹立たしい思いをすることはたびたびあります。それでも、広告に対しては、人々は概ね寛容に受け入れています。公園のトイレの外壁に「戦争反対」と書かれていることが、どれほど不快でどれほど犯罪的だというのでしょうか。

街に溢れる看板や電車内の吊り広告という合法的な宣伝行為と公共物に落書きする違法行為の区別がつかないシュールな木下被告。

私たちは、労働時間はもとより余暇の自由時間まで、規範に締め上げられています。労働時間は仕事の部品になり、自由時間には消費社会の部品になります。労働者の自分と消費者の自分を切替えながら、誰かに用意された生活の回路をぐるぐると追い立てられるように走り回っています。それは資本に飼い慣らされた操り人形です。

労働の対価として賃金を受け取っていること忘れているシュールな木下被告。

わたしたちの暮らす都市や街路は、警察や一握りの住民のものではありません。不特定多数の市民
のもの、みんなのものであるはずです。
私が書いた「戦争反対」、「反戦」、「スペクタクル社会」という文字は、人々に受け入れられる
べきだし、消されるべきではないと考えます。

公共物は一握りの住民のものではなく不特定多数の市民の物であるという認識を持ちながら、一握りの意見を受け入れろというシュールな木下被告。
続いて第五回公判本人意見より。

このように落書きはすぐ消せますが、私が書いた「反戦」という思いは消せません。
 3月20日に開戦したイラクへの侵略戦争は今も続いており、数多くのイラクの人々が殺されています。また、この戦争では湾岸戦争を上回る劣化ウラン弾という放射能兵器が使用され、それを微量でも浴びたイラクの人々は体内を毒され、後遺症が残り、 死に至ることもあります。

劣化ウラン弾についてはこちらのサイトを読んだ方がいいかもしれないシュールな木下被告。

本件で問われている建造物損壊罪は「外観・美観を著しく損ねる」という観点から だと思いますが、これは他人に不快感を与えるという事に置き換えられるでしょう。しかし一体どれくらいの人が私の落書きで不快感を覚えるのでしょう。なにか統計調査でもしたのでしょうか? 杉並区は私の書いた落書きで被害を被ったと言っていますが、その区自らが公園のトイレに虹の絵の落書きを書いているのです。区所有の建物に区自らが落書きするのはいい、というのは理由になりません。落書きが不快なものであるという以上、誰が書いたのかという事は問題になりません。ましてや公共体である杉並区が落書きで被害を被る・見る人に不快感を与えると言う一方、その落書きを行う、区の言葉を引用すると「重大な犯罪行為」を区自らが行うというのは公共体の概念からいっても相反するものです。
つまり、被害であり、不快感というのは極めて曖昧なわけです。

区がトイレに描いた虹の絵と自分が書いた落書きの違いが理解できないシュールな木下被告。

また、不快感という観点からさらに言わせてもらうならば「表現」をする以上、万人に受け入れられる表現というのはあるのでしょうか。少数であっても不快に思う人はいるはずです。そうである以上、不快感という曖昧な基準を押し付けて具体的な表現を禁止したり、容認したりするようになると表現行為すら出来なくなるのではないでしょうか?

トイレの壁が思想表現の場でないことを知らないシュールな木下被告。

ここから先はスペクタル社会とかいうのとシュールな木下被告のこれまでの人生についてシュールに語られているので割愛。

・スペクタクルは考える時間を奪う
・スペクタクルは物神崇拝だ
・スペクタクルは際限なく、終わりなく、商品の消費を必要とさせる
・スペクタクルは情報や広告の娯楽に象徴される「消費」をそれしか選択肢がないように提示する。そして、その選択を皆はこの上なく受け入れる。
・スペクタクルは宗教的な幻想・熱狂を物質的に、商品に変えたものだ
・スペクタクルは商品という鎖につながれた、人の存在を所有、そして消費に墜落させた現代社会の
悪夢だ!
・空腹でも食事は我慢する、時には拒否する。
・ジュースは別においしいわけじゃない。胃が痛くてもコーヒーを飲む。
・風呂は10日ぐらい入っていない。
・これらは私の値打ちだ。
・広告というスペクタクルの上に落書きをしよう!
・戦争は最大の殺人罪であり建造物損壊罪だ!

俺の理解の範疇を完全に超えてしまったシュールな木下被告。

唯一言えることは風呂くらいはせめて毎日入ろうよってくらいのもんです、ハイ。