死と隣り合わせの少年

政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。趙側は人質の子楚を処刑しようと捕らえたが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇など無かったため、政は母と置き去りにされた。趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地の真っ只中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。
邯鄲のしぶとい篭城に秦は軍を引いた。そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が即位して孝文王となった。呂不韋の工作どおり子楚が太子となり、趙は国際信義上、10歳になった政とその母を秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか3日後に亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が即位・荘襄王となった。呂不韋は丞相に任命された。