『みなみけ』と親の不在

注意:本文はアニメ版『みなみけ』から推察した文章となっております。漫画から推察される内容は含んでおりませんのでご注意下さい。

アニメやゲーム、漫画における親の不在については、どっかで誰かか書いていたかもしれません。
でも『みなみけ』観ててあらためて思ったことなので書いてみます。そうです、みなみけには親が不在なのです。

まず、そもそもアニメやゲームにおいては子供(たち)が主人公であったらその親が出てくることはまれです。
出てきても両親が出てくることはありません。たいてい先に母親が死んでいるか父親が死んでるかです(最近のでは、母親が死んで父子家庭である『らき☆すた』とか)。そうでなかったら病気か、単身赴任中で日本にいないとかになってるような気がします(母親が病気で半父子家庭である『となりのトトロ』はこれに当てはまるでしょう)。
では、なぜそんな設定となっているのか。
それはストーリー上で親は必要でないからです。子供たちは学校や、学校に関連するイベント、学校から生まれた人間関係において生きており、家にいる時間や親といる時間はおまけなのです。
これは基本的に考えてみたら現実の世界でもそうです。学校というコミュニティの中で初めて子供は親との空間以外の新たな空間を獲得するわけですから。その中で親や家というものは、個人の背後関係(具体的に言ったら転校の理由となったり、一人暮らしをしている理由となったり)として存在するのです。

しかし『みなみけ』には家はあるのに「全く」親の存在が明らかにされていません(アニメだけの話、漫画は途中から読み始めたので突っ込みはなしということで)。
そもそも彼女たちは広い家に住み、皆学校に通って(恐らく私立)いるにもかかわらず、親の存在がないものとなっているのははたはた疑問。生きているのか、死んでしまったのかも不明なのです。
三姉妹の「南家」と四兄妹の「南家」は家の場面はでてくるものの、彼女らは家の中では常に姉妹・兄妹だけで、そこには上記の謎を解く鍵となるものはなく、存在しないものとされています(年長者としていとこはいるが)。
彼女たちは自分たちで食材を買い、食事を作り、洗濯をし、旅行をする。
普通ならばそれぞれ異常な家庭状況と言えます。
このような状況を、「家」が「親」や「夫婦」によって構成される権威的なものであるという考え(典型的なものが『サザエさん』)に対する批判として観ることは、少なからず原作やアニメからは伺えません。しかし、「子供のみ」で構成される「家」でも「親」の存在する「家」と変わりなく機能していることは如実に表れています。
そもそも、家の機能として、社会学者であるW・F・オグバーンは「経済的」「身分的」「教育的」「宗教的」「慰安的」「保護的」「愛情的」を挙げており、その内、前六者は「家」の中での活動の意味を失い、「愛情的」機能のみが「家」に残された最後の機能であるとしています。この「愛情的」機能は親によって担保されるものなのです。
そして、その「愛情的」機能からの脱出(つまり「家出」)が、子供を一つの人格として形成・完成させるわけなのです。
しかし、『みなみけ』にはその「愛情的」機能を果たす親がそもそも不在です。
代わりに「愛情的」機能は時として姉が果たしたり、時として妹が果たしたり、そして時として友人が果たしたりしています。全く子供達だけで「愛情的」機能が補完できてしまっているのです。
これはまるでピーターパンのネバーランドのようですが、少なくとも彼女たちは「親」の存在を前提(ピーターパンのネバーランドは親に捨てられた子供達の世界という前提がある)としていないので、ネバーランドとはちょっと違います。
どのように定義していいのか私には分からないですが、彼女らは「家」にいながら、すでに「親」から「家出」をした状況(但し「愛情」そのものからの「家出」はしていない)にあり、これは家族の新たは形態と言うことは出来ます。

アニメやゲーム、漫画における親の不在は、現代社会が「親」による「家庭」や「家」のシステムを批判的に捉えていることの現れと言えるのであって、「家庭」における「愛情」とは何なのかを暗に問いかけている(製作サイドにその意図があるかないかは別として)と考えることが出来るのではないでしょうか。

さんざん言いましたが、『みなみけ』は何も考えずに観るのが一番楽しいと思います。この文章も、後から読み直してまたちょこちょこ修正するかもしれません。いや、消すかもしれない。
あと最後に、この文章は寺山修司の家出論から部分的に抜粋していることを明記しておきましょう。