光市事件の失敗

また安直に考えるけれども。
弁護団が荒唐無稽ともいえる被告の新証言を採択し結果として勝ち取れたかもしれない情状酌量を捨てたことは理解できないことではない。ただ、今回の主張で弁護団は、反省しない犯罪者がいること、また、他にも多数いるだろうことを印象づけてしまった。荒唐無稽とまでは言えなくとも死人に口無しな主張で死を逃れようとすることも。
実際に多くいるかどうかには関係なく「馬鹿は死ななきゃ治らない」と思った人が多数出た時点で政治的には敗北である。そして、そういった打算抜きにあの主張を貫くのにあれだけの弁護団が必要だとも思えない。今枝弁護士ひとりに任せたほうがまだましだったかと思う。
結果として被告から更生の機会を奪ったことがたとえ被告の望んだ主張の方向の結果であったとしても、それをそのまま主張したのは正しいのか。答えは出せそうにないけれど。

自由の敵はSLAPPか

オリコン烏賀陽裁判の地裁判決が出たようです。結論から言うと原告勝訴、と。

これまでの雑誌に対する名誉毀損訴訟の判例とかを見る限り、この判決がまったくのデタラメなものだとは思わない(報道をどう捉えるかという配慮はされてないけど、司法がどれだけ判断できるのかという面もあるだろうし)けど、しかしそれにしてもこの訴訟はあらゆる意味でおかしい。

音楽配信メモ オリコン烏賀陽裁判の地裁判決文をアップしました

津田さんはこういっているし、実際に「事実無根でない」根拠を示すのは難しかったのだろうと思うけれども、このようなコメントを弾圧するかのような訴訟を行うかどうかの判断は企業のモラルの部分に近いのではないかな。もっとも、これを戯言とスルーできなかったオリコンは痛い腹を探られまくったわけだし、死亡フラグを自ら立てたようなものに見えなくもない。企業のあるべきコンプライアンスというのは風評リスクを十分に織り込まなくてはならないな。
この件は雑誌へのコメントだったけれども、今後こういった問題はウェブにもシフトしてくるだろう。かつて東芝クレーマー事件でネットの力というのは十分に示されたけれども、それはやり方によっては社会に対して十分に影響力を発揮できるということを社会が認識したということだ。つまり、ある程度力をもつと思われるところからの風評の発信はたとえそれが事実に基づくものであってもその事実が証明可能でない場合、訴訟のターゲットになりうるということ。もちろん、事実無根のことを言いふらすのはダメなことだと思うけれど、究極的には我々消費者が正しい情報を手にする機会を奪うことにも繋がりかねない。今後こういった訴訟がどのくらい起こっていくのか注意深く観察したいところです。
とりあえず、烏賀陽氏はお気の毒というほかない。

包括契約の是非

ついにJASRAC公正取引委員会が立ち入り検査を行ったようです。

放送事業者は、JASRAC管理下の曲は定額で使い放題である一方、別の著作権管理事業者の管理する曲を使う場合には追加支出が生じる形となっている。このため公取委は、放送事業者が新規事業者と新たな契約を結ぶことを制限しているとして、JASRACが市場を実質的に支配したと判断したもようだ。

経済、株価、ビジネス、政治のニュース:日経電子版

なんだ、放送事業者の話か。JASRACニコニコ動画と提携したことに対する放送局側の腹いせじゃないの?
正直なところ、今回問題になっている部分がさっぱりわかりません。別の著作権管理事業者の管理する曲を使う場合に生じる支出ってJASRACに対して?そうだとしたら契約がおかしいし、そうじゃないとしたら、あたりまえでしょう。
包括契約の問題は、金額の妥当性にこそあると思っています。特に、放送事業者のような業として音楽著作物を流す事業者ではなく、BGMや生演奏を年に何回かしかしないお店に対して、月額基本料金などを払う包括契約を結ばせるようなやり方に妥当性があるとは到底思えません。これについては不当に不利な契約だと思うのですね。
でも、今回のはどうにもわかりません。こういった形での包括契約が不公正と考えられるのであれば、明細を作成するために放送局側のコストというのは増大するでしょう。JASRACが調べれば?そんなコストを賄わせるのであれば、かえって全体の使用料は値上がりすると思います。年1の生演奏は容易に管理可能ですが、毎日流れる楽曲のデータをやり取りするコストは(将来的にはともかく今は)JASRACも放送事業者も払えないでしょう。
ニコニコ動画はもしかしたら出来るかも知れない。そういった点についての危機感が放送事業者にはあるのかもしれません。
いずれにせよ、この立ち入り検査はなんか今更感がありすぎてつい目的を勘ぐってしまいますね。

「死にたくない」と泣き叫ぶべきか

死刑に報復感情を満足させる以外の何かの効力があるとすれば、人として越えてはいけない線を踏み越えたらえらい目にあうということを社会が再認識するということくらいなのかも知れないけど、本人が反省し、罪を悔いながら死んでいくのと、死にたくないと泣き叫びながら死んでいくのとはどちらが社会に与える影響度合いは大きいのだろうか。