シーシュポスを読んでのキリーロフ

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 キリーロフについて、結構あいまいな観点でしか考えていなかった。ようやくすると俺の認識といsては、キリーロフは自殺を行う同期として神。神聖とは独立した自由であること。すなわち、自分の生殺与奪をも自分の意思で決められる。己というもおのに対して神の規範というものがなく、支配するのは己だという。「すべてよし、全ては許される」というところに帰結する。ただ、キリーロフはキリストと同じく。(キリストは人神であって神の人ではない)。キリーロフはキリストを無条件で崇拝しているが、キリストが虚偽のうちに殺されて、また天国へはいけなかった。なぜなら天国、などちうものは人神には存在せず。あの世に向けた希望がうち管から他。キリストは虚偽のまましに、贖罪を背負ったが天国へはいけあかった。キリーロフの論点はそこにある。神聖もいうもは、あの世、死の後に訪れるものに対して与えるものではなく、この世現世においてあたえらえるものだと。それは独立した自由。自由とは、偶像の神の教義に傾倒することではない。自由とは神の定めた運命論に反抗するものだ。
 キリーロフは隣人愛をもって自殺を行う。もし神がいないとすれば、全ては許される。全てよしとされる。正確な善悪の基準が突破割れたとしたら、彼をつなげるのは法律でしかないのかもしれな。だがそれは人が不完全な人が作り上げたものであり、完璧さ、公平性、誰もが納得できるようなものではない。キリーロフは自殺を試みる。なぜなら神の定めた生殺与奪においてその枠外において、自らが神になるために(神はいないが、神はひつようだ)という意味において、自分の自由(神に拘束されない自殺)を選び自ら命を絶つ 。
とか書いて、あんま意味わかんないので、書き直し


ケルトンとして
我意を求めるという点。自殺はキリスト教圏にあって、悪徳というか罰せられているとして、神が無いとしたら全ては許される。自殺も許される。これはキリスト教圏では我意の主張としてはそうなんだろう。
 次、キリーロフの隣人愛について
神がいないとしたら、全ては許される、法律や憲法が罪を規定しているが、それらは不十分な人間が作った規定、線、善悪の線だとしたら、量刑も罰もあくまでも被害者、加害者と同じだけの認識を持たない人間が作ったとしたら、その善悪などは何の意味ももたない。というのはまぁあんまどうでもよくてだ。
 神がいないとすれば、全ては許される。キリスト教圏として罪となる自殺も許される。そして、神はいないことを証明するためにキリーロフは自殺を行う「必要」がある。なぜなら、キリーロフは神の存在を信じていない。そして神が存在しないならば人は全員皇帝だ。なぜなら裁くものなど何もないから。キリーロフの役目は神は存在しないことをみなに知らしめ、人は自由である。ということを自らの我意によって自殺が可能であるということによって知らしめなければならないことだ。
キリーロフは自殺に恐怖を感じている。死への恐怖とは神につながるもの(?)。ここがいまいちよく分からないのだけれど、死への恐怖が神が定めたものとして、自殺を自らの我意で行うことが神を克服するということなのかな。
とりあえずここまで