Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

フィリスティアの由来

アビメレクがセム語であることから、海岸沿いの先住民はセム系であったかどうかまでは断定できないようだ。申命2:23ではアビム人が先住であったというが(アビメレクとは、「父は王」の意ではなく、「アビ族の王」の意か?それなら代々継承される理由になる。それもアブラムのようなセム人からの呼び名であったのかも知れない)
フィリスティアは聖書のトーレドートではハム系になるか。Gen10:13-14ではカスルヒムの子孫でありカフトリムではない。だが、ミツライムの子孫には含まれる。(この著者がフィリスティア定住の後の人物である証拠になる)あるいは、弟カフトリムの名でその島が呼ばれたか?(おそらくはクレタ
モーセを前15世紀に設定するには、ゲラルの王をフィリスティアであったとしなければならなくなる。(現状では)
だが、前13〜12世紀に南部のカナン系諸都市が突然の破滅を次々に起こしている
モーセに海の道を採らせなかった神は、エジプトに和議を結ばせるほど強力であったフィリスティアと戦わせることを避けさせたというべきか。Ex13:17 によれば、明らかに出エジプト時にフィリスティア人はゲラルに住んでいる。従ってイスラエルのエジプトでの四百年の間に海の民の侵入が起っており、現状の考古学では出エジプトを前13世紀以降に設定せざるを得ない。(前1200年期のカタストロフ)からには、ヒッタイトの後継のように鉄器を用いる民族の侵入があったとみてよいように思える(青銅器エーゲ文明が駆逐される)。その侵入経路は海しかないのではないか。エレミヤ47:4「カフトルの島からの残りの者であるフィリスティア」(この時代にドーリアがヨーロッパ方面からギリシア本土に侵入、フリュギア人がアナトリアヒッタイトを駆逐して侵入したらしい。また、アイオリスがアナトリア西部に移動してエフェソスなど諸都市を創建。ゲルマンの大移動並みの大変動。原因は鉄器か?)
「海の民」という言葉はメルエンプタハ(前1213年 - 前1204年)の石碑にあるという。それは混成の民でフィリスティアの名は無いし、カフトルも出てこない。⇒申命2:23?
イスラエルのエジプト定住の間に、大海の南部沿岸ではイタリア方面からの海賊民の襲撃と定住が起こっていたと見るのが、今日の学説の趨勢か?そこで出エジプトを前13世紀まで後ずさりさせる必要が生じて来る。
フィリスティア王(セレン)はギリシア語「テュランノス」(僭主)と関連か?フィリスティアの染色土器は同心円状の文様からして、ミケーネ文明(ペロポネソス)の影響があると

フィリスティアは主に海岸に居住し、シェフェラへの影響は限定的であったようだ。人口はさほど多くなかったか。
注目に値するのはシドン人のような北部カナン諸族が、海の民を自国内に取り込んでしまったところにある。
レバノン杉を使った大型船の製造が出来、船乗りとして採用したとも。これらフェニキアが貿易で栄えたことと海の民の到来とに関係があるのかもしれない。
あるいは、フェニキア人と海の民は既に洋上や沿岸で顔見知りの中であったのかも知れない。



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