Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

詩篇のメモ

PS3:4  KJV、またVulgを基調とするカトリックと新教派とは3節4節の区割りが異なる。TanakhはKJVに同じ
[וּדְע֗וּ כִּֽי־הִפְלָ֣ה יְ֭הוָה חָסִ֣יד לֹ֑ו יְהוָ֥ה יִ֝שְׁמַ֗ע בְּקָרְאִ֥י אֵלָֽיו]は第四節とされているが【口語】【新改訳】は3節に含む<ユダヤカトリックに順じたか>
[חָסִ֣יד] ハスィードを「主の慈しみに生きる人」【新共同】「聖徒」【新改訳】「神を敬う人」【口語】と、かなり意訳をして日本語が異なっている。ここはNWT[jp]「忠節な人」が勝る。


PS7 ダヴィドの哀歌[シッガヨーン]
この神の敵意の対象者は諸国民よりは「帰らない者」である
脱落聖徒であるかもしれない


PS17:14 [מחלד] メヘレッド「この世」=「命の存続期間」


PS25:18 ツァデーとレーシュの間のコフが抜けている


PS29 表題にLXXは「幕屋の祭りの最終日に」また1節は「ベネー エーリーム」で「神のような者ら」これをどう訳すかに諸説あり
 ⇒エイレナイオスAHⅢ Ps84=Jh10:34



PS37:20 直訳「YHWHの誉れのよう、太った雄羊らのように」
転じて「捧げ物の肥えた子羊が焼き尽くされるように」の意
「牧場の貴重なもの」と訳すのは意味不明では?


PS37:28[כִּ֤י יְהוָ֨ה׀ אֹ֘הֵ֤ב מִשְׁפָּ֗ט וְלֹא־יַעֲזֹ֣ב אֶת־חֲ֭סִידָיו]・・そして見捨てない 忠節に愛する者たちを



PS63:13.69:30のShMは古体
死すべき人(エノーシュ)


PS64:9-10『その時すべての人は恐れ、神のみわざを宣べ伝え、そのなされた事を考えるであろう。正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる。』


PS73:28には「シオンの娘の門で」が追加LXX&Vul


PS82:1- 『神は神々の中で裁きを行う』Vulgはそのまま「神々」古シリア訳は「天使」
 ⇒エイレナイオスAHⅢ 


PS89:33 忠節な愛 ダヴィドに語った通りに


PS91:2 LXXに於ける僅かなShM


PS91:3 「安息日の前日の為に、その時、地に人が定住した」「ダヴィドによる歌の賛美」Vulも同じ


PS92:10 キルエーム本来は「一角獣」羅「ウニコロニス」


PS96:11 の最初の4単語の頭文字でShMが構成されている


PS101:3 無価値な」(ベリアルの)



PS102:17-18『主はシオンを築き、その栄光をもって現れ、
乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです。きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。そうすれば新しく造られる民は、主を誉め讃えるでしょう。』



PS113-ハレルの開始


PS114 第二盃のハガダーの後に詠まれた


PS115-118 第四盃の後に詠まれた


PS126 この全体は帰還に関する初期を描写していると見ることができる。『ネゲブの川床』とはワジを指し、枯渇と洪水の対照を描く『泣きながら』⇒Jer31:9


PS132:18 「王冠は花を咲かせる」


PS134表題「踏み台」「階段」plの意



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神は
「暴虐を愛する者を必ず憎まれ」11:6
「卑しめられるべき者は退けられる」15:4













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覚え

経綸を書き始めたのは2009の夏以前で
僅かな記憶を辿ると2月(6日か8日)には書き始めていたかも知れない
その日の午後、広瀬で爪が割れた
8月と12月に引越、執筆環境はかなり悪く苛酷にもなったが、速度は上がった。僅かにオーストラリア人ひとり(Craig)の助け
(12月移転だっかかは記憶が残っていない、12月3日にPHSNHKの放送で映画監督の話を聞いた件が残っている。部長は浜田)
二番目の引っ越し先の二階の部屋で2010年4月11日にこのブログを開始
(町内会と隣の家の建て替え工事にかなり悩まされる)
その二つ目の移転先で書き上げたのが2010年9月6日か8日の夕刻
その後、推敲と校正を重ねつつ新宿に向かったのが幾らか寒い季節であった
2010年12月22日に三回目の移転、その前に書評が届いている
原罪論(と社会構成)の部分に評価を受ける
その後、オランダ由来の別の会社で印刷が決まり三巻分冊とする
12月24日の夜にヤマトから全原稿を送り、その足で晴れた夜中の河原を歩く 身辺の事情も悪かったので、執筆期間を非常に長かったと感じたが、今からすれば短い
翌2011年、2月5日に「quartodecimaniのブログ」を開始。この頃の精神環境は最悪 9月に親が入所
3月11日に印刷会社の林さんと電話している最中に震災となり、以後進展が遅れる
その後、おそらく4月頃に最初の紙媒体を手にする
11月に被災した九段会館を眺めつつ最新刊を受け取りに行ったと思える(ファミマに寄って中国人がいた記憶)
これは10セット程度販売
啓亮文館から電子文書として出したのが何時かは忘れた。これはDLマーケットから

「新十四日派」構想は、2010年以前にあったようだが、今となっては何時思い立ち、決意したかは不明。経綸執筆の最中らしい
但し、資料のそのページを開いて「これにしよう」と決意した瞬間は覚え有り。2010年であることはこのブログが証している。







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