100mを走らせて、20秒より遅い人を努力不足と呼ぶのか。
心拍数を調べて、上がった人は努力し、下がった人は努力不足と呼ぶのか。
タイムの上位15%が努力をしたものなのか。上位85%までが努力者なのか。
「世界には9秒台で走る人もいる。そうでないお前は努力不足」なのか。
100人で走らせて、10位以下は努力不足で、救済の必要は無いのか。頑張ったものは上位にいる。だから、それ以外は努力が足りないのか。
あと、実際の競争は、ゴールの3m先が崖になっている。ピストルの合図でスタートし、10位に入れないと負け組。ゴールしても勢いがつきすぎていると、海に転落。
ライトノベルを定義しようとすること
そもそも「何のために定義するのか」ってのが全然見えてこないわけですよ。「○○はライトノベルか否か」なんて、そんなに重要な問題なのか。自分なんかは、ライトノベルの定義について考えるときは常に「ライトノベルという現象を、時代の中に正しく位置づける」ことを意識しながら考えているつもりなのだけど。
http://d.hatena.ne.jp/USA3/20070826#p1
何回も書いているけど、また書く。
みんな、ラノベ棚にあるのがラノベ、ということは十分認識しているし、表紙が美少女でないから、こんなのラノベではない、と御影を棚から投げ捨てるなんていう過激派も、このへんにはいない筈だ。ただ、ライトノベルレーベルという、出版サイドという範疇と、必ずしも同一ではない、ライトノベルマーケット、「みんなの考えるライトノベル」という集合があって、そこに登録していいのかどうか、議論をするのは大変楽しい。ラカンを例に出すまでも無く、いや、読んだことないのだけど、みんなが読んでいる本を読むのは非常に楽しい。だから、観測気球を上げるわけだ。
もっと還元すると、連帯感の維持のため、なんだろうけど、さすがに還元しすぎかも。
新城は冒頭に「時間がない人のための400字解説」をつけ、「ほんとはそうでもないけど」と断わりをいれたうえで「世間的には“アニメっぽいイラスト付きで会話文の多い、若者むけの軽い娯楽小説”」と定義している
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/lightnovel.html
出版社にとっての「ラノベ」
書店にとっての「ラノベ」
に、異論を挟むひとは少なそうだし、
コンテンツの外形としての「ラノベ」だってそうだ。
ただ、文学史の中での「ラノベ」は、ちょっとバラエティーはある。
そういうのとは別に、キミとボクと「ラノベ」の定義をすり合わせる作業は、キャッキャウフフと楽しいもので、だからといって、本屋へ行って「人間失格*1がラノベ棚に無いのは間違っている!」なんて抗議する人間が出るとも思えないし。