氷水

http://www.geekpage.jp/blog/?id=2007/10/22の「Geekなぺーじ 企業文化が形成される経緯」に関して。

元々いた8匹の猿を一匹ずつ置き換えます。元々いた全ての猿は部屋にいなくなっています。今、部屋に居る猿は氷水を浴びせられたことがありません。また、はしごに登ろうとする猿もいません。全ての猿は、はしごに登ろうとする猿を狂ったようにボコボコにします。しかし、何故そうしているのかは誰も見当がつきません。

http://www.geekpage.jp/blog/?id=2007/10/22


これは、どちらかというと企業文化というものを揶揄するような感じで書かれているようにおもいます。でもはしごに登ろうとすると氷水が降ってくるという条件が変わらない状況下では、だれもはしごに登らせないようにするという行動には合理性があるようにも感じられます。
問題は、はしごを登っても大丈夫な状況になってそれがわかったとしてもバナナを取れないということでしょう。状況の変化に対応できないわけです。また、わからないままに行動を変えることにもリスクがあります。はしごに登った結果なにが起こるのかはわかなないからです。氷水程度で済めばまだしも、強烈な電気ショックで死んでしまうことだってありえます。
そういう点で、理由があきらかでないノウハウというのはそれ自体が有効であったとしても応用がきかないというデメリットがあります。その一方で理由が明らかであった場合に、猿の実験でいえば他の猿が氷水を被ることを知っていながら自分の利益のためにバナナを取ろうとする猿がでてこないとも限らないので、理由を明らかにしない禁忌のメリットというのもあるのかなと思いました。

虐げられるもの

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071022/p1の「 『フルメタル・パニック!』に感じる不快。 - Something Orange」で、小説の登場人物の行為に関する不快感について書かれています。にたようなことは比較的多いのではと思います。殺人などの行為はそれほど非難されないが差別的な言動などは非難されることが多いことが特徴的のように感じます。
少し前にhttp://anond.hatelabo.jp/20071020003519に「ライトノベル作家は政治的諸問題に対してコミットするべきか」という疑問がかかれていたのを思い出しました。作家の意見としての言動と、作品の登場人物の言動というのは別のものですが、場合によっては同じと認識されて非難されることもあるなあというようなことからの連想です。
それを現実とフィクションの区別がつかない行為として批判することもできますが、なぜそういう誤解にも思える認識がおきるのには理由があるはずです。単純に推測すれば、小説によって直接だれかを殺したりすることはできないけれど、小説によって誰かを差別したり心を傷つけたりすることは出来るからでしょう。
ただ極端な話、何を書いたとしても傷つく人はいないとは限らないので難しいところです。たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/kaien/20071021/p1の『 「オタク」が死ぬ日。 - Something Orange』に書かれている”「SF」が死んだように。”のくだりを不快に感じる人もいるかもしれません。別に「謝れ! SFに謝れ!」とまでは思いませんが、「謝れ! 早川さんに謝れ!」とは少し思いました。
参考 http://horror.g.hatena.ne.jp/COCO/20071013今日の早川さん