文学博士による「ザ・シンプソンズ」声優問題の評論

福岡教育大学で国際共生教育講座の教授をなさっている文学博士・板坂耀子さんの、「ザ・シンプソンズ」声優問題についてのご意見を紹介いたします。

板坂先生の専門は江戸の紀行文学ですが、現代の映画や小説、さらに日本における洋画・海外ドラマの吹き替え文化についても造詣が深く、運営されているHP掲示板(下の方にリンクがあります)で「ザ・シンプソンズ」声優問題について日本の吹替え番組の歴史などの解説を交えつつ評論されていたのを見つけてその文章に感銘を受け、個別にリンクが貼れない掲示板ではあまりに勿体ないと転載をお願いしました。
今回は板坂先生の快諾を得て、抜粋という形で掲載させていただきますが、ぜひ、先生の魅力あふれる文章をHPでお読みください。面白いコラムがギューッと詰まっています。
『板坂研究室(itasaka room)』
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~itasaka/top.html

板坂耀子先生による 「『ザ・シンプソンズ』声優問題その後(2007.12.10)」

海外アニメの「ザ・シンプソンズ」が映画化され、日本公開されるにあたって、配給会社の20世紀フォックスが、これまでテレビでおなじみだった日本語吹き替え版の声優でなく、タレントの人たちを主役に起用したことについて、波紋や抗議が広がっています。
私は、このアニメを見ていません。ですが、この間の抗議運動と、それに対応する20世紀フォックスの様子を見ていると、かつてこのホームページで、「マスター・アンド・コマンダー」という映画の予告編について抗議を行った時と似た状況を感じます。   
簡単に言うと、ある海外の作品を日本に紹介するにあたり、作品そのものの魅力を基本的な作業としてでも知ろうという努力をせず、「この作品は地味で、それほどファンはいないから、ヒットしない」「この作品のことを知らない人たちをひきつけるためにはどうすればいいか」ということだけを第一に考えて、ひどく思いつきの、思いこみの方法で、とにかく観客を動員しようという宣伝方法です。これはほんとに不幸なことです。思いついた人も、それなりにうまいことをしたという思いこみがあるらしいだけに、異常なほど修正がきかないようです。
映画「マスター・アンド・コマンダー」の時は予告編の問題で、その方法のひどさたるや、いろんな意味で画期的でした。ただ作品本編には手がつけられていなかった(そうなりそうになりましたが)だけまだましで、その点、今度の吹き替え交代はもっと作品そのものに関わるだけ、深い問題もあります。
もうすぐ映画も公開されそうですが*1、この間の経過を見ると、抗議する方々の冷静で的確な運動の結果、一定の成果は上がっています。
インターネットの抗議の署名は3000を超え、アンケートでもそれ以上の人が、タレント吹き替え版の映画は見に行かないと回答しています。
この結果か、20世紀フォックスは、声優吹き替え版のDVDを制作発売すると発表しました。
また、映画と提携して商品を宣伝している「ミスター・ドーナツ」は、CMに映画とはちがう従来の声優さんの吹き替えを使いました。現在*2これが流れていて、映画が公開された場合、劇場での声はCMとちがうことになります。
タレント吹き替えの映画版の方は、宣伝も控えられがちで、タレントさんたちのこの映画に関する発言もあまり熱意のあるものではありません。むしろ原作を否定する内容の発言と抗議する人たちもいます(あまり作品の伝統や魅力を知らされることもなく、仕事をさせられたタレントとしては、そういう発言しか、しようがないだろうとも私は思いますが、どのみち当人にもファンにも不幸なことです)。
大勢のファンの声が反映されたという点では喜ぶべきでしょうが、言いかえればタレントの方々の吹き替えでの公開にはますます映画の成功する可能性は薄くなっているように思えます。
くり返しますが私はこのアニメを見ておらず、そのような立場からの発言しかできませんが、そんな私から見ても、この状態をよい方向でまとめるのは、もう声優さんの吹き替え版を映画館で公開するしかないだろうと感じます。
最初に紹介した時と同様、声優変更を考える会のサイトで詳細はごらん下さることをおすすめします。
このアニメをご存じの方はもちろん、私のように見ていなくても、映画や翻訳など異文化の紹介に関心がおありの方は、ぜひごらんになって下さい。
タレントさんへの不必要な攻撃など、匿名でしかできないような発言や行動はやめていただきたいですが、英語がだめなら日本語ででも、どうぞご意見がおありの方は表明していただきたいと思います。
私がこのような問題に、関わりたいと思うゆえんは、あながち映画だけではなく、さまざまな文化活動の、ひいては社会全体の中にある、「たくさんの人が長いこと、静かに大切にはぐくんで育ててきたものを、ろくに見もしないで、『もうかるためにはどうすればいいか』だけを安易に考え、さんざんにぶちこわしねじまげ汚した結果、(ここが何より肝心ですが)結局はもうかることにも失敗して、それを自分がぶちこわしたもののせいにする」傾向に、しんからうんざりしているからです。 作品も、大衆も、愛してもいないし理解してもいないくせに、「大衆にそれではうけいれられない」などと言う、思い上がった職業人の罪の深さです。
私はどんな業界でも、全体としてはこういう人はむしろ少ないと思っています。私が接した編集者の方々にしても、「それでは読者にわかりにくい」 といったかたちで私に下さるアドバイスは貴重で的確でした。そういう聡明で賢明な仲介者がきっと多いし、たくさんの方がそういう仕事をきちんとされている のだろうと思います。中にたまに、どーしよーもないよーなアホがいて、力を持つとそういう勘違いをしでかすのでしょうね。

*1:2007年12月10日時点

*2:2007年12月10日時点

板坂耀子先生による 「ちょっと書き忘れ(2007.12.11)」

シンプソンズ」の吹き替えの件ですが、いくつもの映画雑誌がすでに取り上げています。「キネマ旬報」は二回、「映画秘宝」「この映画がすごい!」「日経エンタテイメント」、その他にもさまざまな情報誌やサイトのコラムで取り上げられています。いずれも、今回の声優変更に 批判的と言ってよく、これまでのさまざまの同様な吹き替えに関する問題についても触れているものが多いです。
私自身は、まだ「アイ・ラブ・ルーシー」なんて娯楽ばりばりの作品も白黒テレビで字幕で見ていた世代です。多分中学校か小学校のころ。テレビが やっと普及しはじめた時代です。映画ももちろんディズニーのアニメまで皆字幕でした。だから、テレビでほんとに最初に吹き替えが始まったころを見ていて、 その時はずいぶん異様で、ショックでした。あの独特の吹き替え口調になじめなかったし、ずっと「何だかにせもの」って気がしていました。
吹き替えという芸術のすごさに脱帽したし魅せられたのは、「0011ナポレオン・ソロ」でしょうね。ロバート・ボーンデビッド・マッカラムと いう、実際にシリアスなドラマも十分にやれる演技力の高い名優が、世にもばかばかしいスパイものを最高のうまさで演じていた原作の魅力に加えて、矢島正明野沢那智の声音と巧みな脚本が、まさに総合芸術の域に達していました。
私が敬遠していただけで、既にもうその時、吹き替えはかなりの水準に達していたのでしょうね。デヴィッド・ジャンセンが主役を演じた「逃亡者」 のドラマは私の周囲の友人たちは皆見ていましたが、後に、本物のジャンセンの声で聞いた時、たくさんの人が失望したようです。つまり、あのドラマがヒットしたのは吹き替えの滝田祐介の声の魅力も大きかったんだと思う。この人は私の中では、むしろドラマ「事件記者」の中での東京日報の敏腕記者イナちゃんだったのですが(笑)。
その後も吹き替えの名優たちの仕事を多く見て、映画やビデオでも吹き替えで見るよさも理解しはじめましたが、そうは言ってもやっぱり私の中では、たとえ子どものアニメでも外国映画は字幕で見るものだったし、最近字幕と吹き替えが同時公開される状況には、まだなじめません。中学教師をやっていた友人は、あれは字幕を読む能力がない若者や大人が増えたからだと言っていますが、そうなら、それもけっこうショックです。
そんなこんなで、声優さんの仕事に対して私は決して理解のある方ではないと思います。正直、映画の大作のテレビ放映にあたり、人気俳優が声優として出演した最初は、驚きながらわくわくしたし、「ただの声優」じゃなくてそういう人が声をあてるというのは、何となく吹き替え映画の格が上がった気がしたものです。そういう感覚だった時代はあったのではないでしょうか。
そんな中で、やがて「ちゃんとした声優さんを使え、話題づくりに俳優を起用するな」という声も出てきた時には、それもあろうと思いつつ、ちょっととまどったりもしました。
だから私は声優や吹き替えという文化には、いろんな点でまだ複雑な心境でもあるのです。何もかもテレビ版の声優がいいとか、無条件に肯定するのでもありません。
ただ、今回の場合、信頼できる方々のご意見を聞くと、このアニメの吹き替えは非常に質が高く、元の英語の声ととても似た声の声優の皆さんが出演されていて、違和感がほとんどないとのことです。
もちろん、長く慕われた声という事実も見逃せません。
映画を成功させるために、大胆な企画や試みも必要な時はあるでしょう。しかし、それに挑戦し、本来のものを変えるためには、その作品と全身で向き合い、理解し、愛したという自信と、その作品そのものとそれを支えてきたすべてに対する深い尊敬がなくてはなりません。
話が横にそれついでにそらしまくると、この夏「トランスフォーマー」という「世にもアホな」と見せかけていて、その実、大変ちゃんとした骨格のあるロボット映画にはまって、今、そのもとになった昔のアニメをながめては抱腹絶倒しているのですが、このはちゃめちゃな楽しい味わいを、よくも見事に最新CG映画で活かしきったと、またしてもスピルバーグに、初めてマイケル・ベイに頭を下げました。
それは、このサイト(板坂教授のサイト)で予告編問題をとりあげた映画「マスター・アンド・コマンダー」と原作小説との関係にも言えるのですけどね。
まったく大胆に設定を変え、新しい要素を加えているのに、原典の精神を決してはずさない。だからこそ、原作のファンが怒らないのみか、私のようにまったくもとの作品を知らない者も魅了される。
二次創作をする場合も共通しますが、もし、何かをもとにした作品が失敗してこけたとしても、そこにもとの作品への掛け値なしの愛情がこもっていれば、まだ許されると思います。失敗は失敗ですが。
また、もとの作品の精神をふみにじって、新しい作品として成功させたとしても、そこにもとのものを踏み台にしても表現するに足るだけの、豊かさ や激しさや深さがあれば、原作のファンは許さないでしょうが、それもまたしかたがないと思う。そういうのは何というか、弱肉強食の世界だから。
予告編やら字幕やら吹き替えやら編集やら装丁やらの手を加えて、作品を作り手から受け手に渡すまでの作業のひとつひとつは、ある意味皆、創作の一部に等しい。そこで、オリジナルを凌駕する、あるいは変質させるものを作り出してしまう力が、ほんとにあるなら、それもしかたがないと思う。
でも、そんなことはめったにあるものじゃなく、たいていは身の程知らずの思い上がりとしか言いようのないつまらない改変が加えられる。
今回の「シンプソンズ」で、長年の声優さんたちの作り上げた世界を多分のぞきもしないで、自分だったらこうして映画をヒットさせるというアイディアをおそらくかなり自信にみちて実行した人(たち)に、私はそれと共通したものがあったろうと感じています。したり顔とか、おのれを知らないとか、そういった表現で言い表したくなる精神のあり方です。
そして、共通している、やりきれなさは、そういう自分の能力やセンスをひけらかしたいなら、せめて自分一人で危険をおかせといいたい、中途半端な薄汚なさです。自分のセンスをためしたいなら、自分の作品で勝負するがいい。もし、人さまの作品に手を加え参加することで自分の実力をひそかに世間に アピールしたいなら、せめてシェイクスピアとか村上春樹とかまあ何でもいいけど、そういうことをするのが恐れ多い、命がけでやらなきゃならない作品にぶつかってみるがいい。
映画「マスター・アンド・コマンダー」も「シンプソンズ」も、とても有名な作品というわけではありません。質はいいし、良心的だし、制作者の愛はこもっているし、しっかりしたファンはいるけれど、だから、あさはかな癖にどことなく目端のきくやつの目から見ると、「そこそこ使えそうな、そんなに悪くない作品」ということはわかるけれど、こわしても、汚しても、そんなに責任は問われない程度のものに見える、だから気楽に自分の冒険ができる。「このままじゃヒットしない」という口実をつけて、自分が好きなようにできる、あまり精神的負担を感じないで。
私は、そういういじましさが、嫌いです。おぞましいなんてもんじゃない。そういうチンケな精神のターゲットになった作品というのが、自分の愛する作品だったら許せないけど、今回のようにあまり知らない作品であっても、腹立たしさは強いです。
シンプソンズ」問題に関心を持たれた方は、どうぞ周囲で話題にしていただきたいし、サイトやブログを作っておいでの方は、私のここでも、声優変更を考える会のサイトでも、どうぞご紹介下さって、この問題を多くの方に教えていただきたいということです。
映画をヒットさせようとしてタレント起用を考えた方にとっても、この問題を少しでも不幸に終わらせないためには、声優さんの吹き替えバージョンの劇場公開しかありません。それほど難しいことではないはずです。ある意味被害者であるタレントの方も含めて、その方が 結局はよい結果になるでしょう。

板坂耀子先生による 「『シンプソンズ』の件。(2007.12.29)

タレントさんの吹き替え版はやはり不評のようで、早々に上映を打ち切る映画館もあるのではないかと噂されています。
字幕版の方はそれなりに客が入っているようです。私も字幕版を見ようと思っていたのですが、これは全国で二カ所(どちらも東京)しか公開されていないようです。
いろいろ事情や心情はあったのかもしれませんが…まったく不幸な結果ですね。
今からでも何かできるとしたら、声優吹き替え版の劇場上映か、せめて字幕版の上映を増やすことでしょう。
映画もアニメも見ないまま、こういう発言をしているのは私も実は不安なのです。しかし「マスター・アンド・コマンダー」の時もそうでしたが、このような問題はいつも「見てみなければわからない」と態度を保留していると、「この目で見てわかった」時にはもう完全に遅い、というのがほんとに救いのないところです。少しでもとりかえしのつく段階でどうかしようと思ったら、「信用できる人たちの発言を信じる」ことしかできない部分がどうしてもあります。これは、私が専門分野でやっている研究や教育の世界での、最初で最後の鉄則「自分で確かめたことしか信用するな」とは完全に矛盾するのですが、それでもこういう状況下では、その鉄則を曲げざるを得ません。
せめてタレント版やアニメを見てはどうかという人もいるでしょうが、これも「マスター・アンド・コマンダー」の時の苦い体験から、ある作品を鑑賞する時、作品と関係ないさまざまな感情を抱きながら見るのは、危険だし不快なことだと痛感しています。私は「マスター・アンド・コマンダー」という映画を深く愛して高く評価していますが、それでもあの映画を見るたびに、予告編で感じた嫌悪感がよみがえってきて、決して虚心坦懐に楽しめません。それもあるから、私はこんなにしつこく、あの予告編とそれを作った人の精神を憎むのです。
私はこれでも、現実にはけっこう何でも許すし忘れるしこだわりません。生きている人間や現実には寛容な方だと思います。人を責めるほど自分が完全とも思っていない。でも、その分、虚構の世界に関しては容赦しません。自分が容赦されなくてもしかたがないと思っています。「マスター・アンド・コマンダー」でも「シンプソンズ」でも、そのようなことをした人そのものはいくらでも許せるし忘れるし、親しくなれも笑いあえもしますけれど、作品に対して壊れたり傷ついたりしたイメージは回復しませんし、その原因を忘れもしません。
そういう点では、私は「シンプソンズ」という作品とは不幸な出会いをしたと思っています。「こんなかたちでも知り合えてよかった」と言えるようになるためには、細心の注意をはらって作品に近づき、触れていかなければならないと感じています。安易な気持ちで見て、たかがFOXを批判するために「いい」とか「すばらしい」とかいう評価はしたくない。
用心深すぎるかもしれないし、神経質すぎるかもしれない。でも、現実とちがう世界を作り出し、人を泣いたり笑ったりさせる作品のすべてには、皆それだけのことをしてやる価値がほんとはあるのだと私は思っています。実際にはいつもは、なかなかそうできなくて、適当に気軽に見ているにしても。
そういう作品を扱う仕事についている人たちに、そのことをよくわかっていてほしい。原子力発電所とか宇宙ロケット飛ばすなみの緊張感でいてほしい。 

板坂先生の言葉を受けて

板坂先生が文中で言及されている映画「マスター・アンド・コマンダー」予告編問題は、「ホテル・ルワンダ」公開運動と並び、ネット発の「公開前の映画に関する運動」として印象深いものでした。
顛末は板坂先生のページに詳しく載っています。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~itasaka/hato/M&C.html


映画版「ザ・シンプソンズ」が公開されてから約3週間、2008年の1月上旬の時点で、字幕版はコンスタントに集客があり、タレント吹替え版は多くとも映画館には10人程度の集客との報告が入ってきています。
TV声優版が上映されたらどれくらいの集客があったのでしょうか?
板坂先生も「この問題を少しでも不幸に終わらせないためには、声優さんの吹き替えバージョンの劇場公開しかありません」と繰り返し仰られています。
時期は急ぎません。DVDが発売されたあとでも、映画第2弾が始まる前でも構いません。ですが、アメリカのシンプソンズ製作者たちが「映画館で観てもらいたい」と送り出した「映画版」をぜひ、「日本のファンが望むTV声優版」の形で映画館で見る機会を与えていただきたい。
20世紀FOX映画という映画会社が「映画館の意義と存在」を否定することがないことを強く望みます。