正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

従軍記者としての子規  (第95回)

 拙宅はマンションの中層階にあり、建物が大通りに面していることもあって、東京の割には見晴らしがよい。上野の森も、スカイツリーも見える。そして眼下には根岸の里。ペンシルビルに隠れて直接は見えないが、子規庵も中村不折が建てた書道博物館もすぐそばだ。

 前に不折を話題にしたとき、子規と共に日清戦争の従軍記者として渡航したことに触れた。うろ覚えだが、書道博物館の年譜にも書いてあったような気がする。偶然ではない。二人とも新聞日本に勤める記者であり、子規は文章を、不折は挿し絵をかいていたし、何より子規によれば、不折を「新日本」に雇ったのは子規の発案である。

 
 しかも、ご近所だ。ずっと昔、「小園の記」を紹介したが、不折はその最後のほうに出てくる。同文中にもあるが、子規は金州に渡り、帰途、病を得た。血を吐き、カリエスを発症している。そのためか、不折は玄関を避けた。早朝、子規の家を訪問し、「裏戸」を叩いた。

 子規庵の裏手に戸があったろうか。思い出せないが、子規は自ら戸を開けたと書いているから、雨戸のことかもしれない。その年、子規は好きな葉鶏頭が生えず、「ほしかりし」「いと口おしく思いし」という心境であった。

 病人は不折にも、そんな思いを語ったのかもしれない。友人は一株の葉鶏頭を持参し、自ら朝露に濡れながら植えて帰って行った。不折も羯南翁も、感染する不治の病の患者に優しかった。


 ただし、正岡子規中村不折が同時期に清国に渡ったとしても、現場や往復の旅路でずっと行動を共にしたという記録を見たことはない。少なくとも帰路の船中では別行動だったはずだ。

 子規は「病」で書いているように、神戸で下船した途端に動けなくなるほど体調が悪く、「坂の上の雲」にも出てくるように入院し、須磨や松山で養生することになった。この箇所はどう読んでも、不折に救けられたという展開ではない。


 それに不折は、書道博物館に中国で収集した文物のコレクションがあるのだが、私が見た範囲でも膨大な数量であり、子規が渡航した約一か月の間で集められるようなものとは到底思えない。

 さらに、往路の消息が不明である。船出の前に、子規は広島で待機したと「坂の上の雲」に出てくるが、私の知る限り、このとき一緒だったのは先輩記者の古島一念だった。


 広島の皆さんは、よくご存じだろう。私は見たことがないのだが、先に出発する古島記者を見送るべく、子規は呉を訪い、幾つかの俳句を残して、それらが石碑となって残っている。

 古島の出発は1895年の3月、子規は4月。すでに威海衛の海戦は、同年2月に終わり、丁汝昌は服毒して帰らぬ人となった。当方の印象では、古島一念は陸羯南の右腕のような男で、流石は大物、初代の連合艦隊司令長官黄海で旗艦とした「松島」に載って渡航している。

 推測に過ぎないが、主力の「松島」が戦場を離れているとなると、おそらく、実質的に制海権を勝ちとった海軍は、そのあと遼東半島の方面に進軍する陸軍の移動を支援していたのではないか。


 さて、子規である。彼はなぜ、すでに病を得ているというのに、あれほど従軍したがったのだろうか。ここを読まないと、正岡子規は近代国家日本の建設に参加した若者という側面が不鮮明になり、偉大な文学者という姿だけになってしまって勿体ない。この小説は、そういう子規だけを書こうとしたものではあるまい。

 司馬遼太郎は「坂の上の雲」において、従軍前の子規が友人に宛てた手紙などを参考に、彼の心理描写をしている。そして資料はもう一つ、子規自身が「病」のほかに、従軍の記録を文章に残している。

 これは「従軍紀事」という題名で、新聞に発表した複数の記事をまとめたものだ。私は「kindle」で買って読んだ。天下の青空文庫にもある。子規は畏れ多くも従軍した近衛師団の一部の人々を痛罵している。これらを、しばらく材料にします。





(おわり)






根岸上空の夜明け
(2017年1月27日撮影)











































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