すべては偶然

まず自分のために敬愛する人生の先輩であるTさんの言葉を引き続きメモ
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文章を読まないように。
戸田先生は酒のみながら、小児まひの子どもを抱える母に「小児まひ?そんなもん、この信心真面目にすれば、すぐ死んで、五体満足な体で生まれてくるよ」と言うとてつもない差別的なことばで、母子ともに、持続的な解放をえさしめた




その時、そのことばはどのような響きをもったかが大事です



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すべては偶然だから、意味が創造できるわけです。

つまり、主体的に意味を創造していくわけですよ。

願兼於業という意味を創造したり、
まわりにだれもいないから、僕がこの人を病院につれていかんとあかんなあという意味しかかんがえられなかったり、

おろかな人は、「過去世に悪いことをしたから、そんな目に遭うのだ」とか。

それを、本当に、物理的真理ととってしまったら、
ジャータカ文献(本来は、今、まわりにいるものは、ひょっとしたら仏かもしれないぞ)を、本当にゴータマ・ブッダは何度も生まれかわって菩薩行を行ったんだ、と解釈してしまう(歴劫修行)のです。

「小乗経は歴劫修行を説き」ではなく、せっかく菩薩道を説いていた経典を、後の時代の人が間違って解釈して……

が、事実です。


道端に財布が落ちているわけですよ。
これは、別になんの意味もありません。
財布が落ちてるだけです。

それに対する行為が、「落ちている財布」に意味を付与するのです。
それからの人生の意味を創造していくわけです。

おっと、200万円はいってるぞ。
そのまま、自分のものにしたら、
いつかバレるのではないかという意識のもとで、
長い時間生きていくという結果が生み出され、

おっと、200万円はいってるぞ。
警察持っていこう、
としたら、別の人生がまってます。

そして、後年、あの財布は自分にとってのつまずきの最初だったという、意味をもったり、

ああ、あの時、落とした人、とってもうれしそうだったなぁ、
銀行に返しに行くお金だったそうだよ、
という、すがすがしい人生の一コマになるのか。
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そうなんですよ。

障がい者を神に結びつけるなどというのは、ユダヤ教では許しがたいことですから。それを平然と語ったわけです。たとえば、「高いところ」というヘブライ語は、רָמֹתなんですが、
この意味は、上の天上界といかいういみではない、

当時のガリラヤなどでは「高いところ」に、ハンセン病者や、追放された人たちが住んでいた。

それで「神は、高いところから、人間界を見下ろした」というと、
今の私たちは、えらい上から目線ちゃうかと思うわけですけど、
実は、意味としては、追放された人たちが住んでるところに、神がいるなんて、なんと冒涜的なことを、イエスはいうのか!となるわけです。

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ヨハネ福音書の意味は、キリストが命懸けで創造したことだったのですね。」というコメントに対して



人生って価値を意味を創造していくことなんだな…。自分の人生。それってとてもシンプルで宗派とかセクトを超えて普遍的なものがある。