やしお

ふつうの会社員の日記です。

いとうせいこう『ノーライフキング』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/34167767

インターネット普及前、子供のネットワークが存在して瞬く間に噂が全国に広がる。そんな世界が描かれて懐かしくて新鮮だけど不満なのは、子供自身がそのネットワークに自覚的に見える点。状況を俯瞰する地の文と視点人物のまことの視界が不分明で、また学習塾の端末で子供の全国的な繋がりを直接描いちゃうから。だから終盤、他の子供たちも同じ苦境にいると知ってまことが衝撃を受けても私達は驚かない。不可視で不思議なこの子供ネットをずっと豊かなものにできるのに!って不満はしかし無い物ねだりで、まずテーマに選ばれたこと自体が貴重だよ。


 自分が90年代に子供だったときの実感としては、ただ近くにいる友達とか雑誌とかテレビとか大人とかから情報が入ってきてそれを得意になって他の友達に伝えていたっていうだけだった。(ポケモンボールを投げた後連打すると捕獲率が上がるとかいろいろ。)
 それは意外と全国でつながっていて、情報が流れるのも早いけれど、本人は何も意識していない。ノードはネットワーク全体のことを気にしない。本人の意識内の世界は狭くて、ノードは隣のノードとの関係性しか見ていない。


 そういう子供のネットワークを主題に据えた貴重な小説だけど、ちょっと違うのは、視点人物である「まこと」がこのネットワークに対して自覚的である(ように見える)ことだ。それは一つが、このネットワークをはじめとして状況を客観的に説明して見ている視線と、視点人物「まこと」の主観的な視線とが同じ地の文の中で描かれていくために、あたかも「まこと」自身が状況を客観的に把握しているように見えてしまうことにある。もう一つが、「まこと」が学習塾の端末で北海道の子供とメッセージのやり取りをしているという舞台設定にある。直接顔を知らない遠くの誰かとやり取りをしていれば、否が応でもネットワークの存在が意識される。


 それの何が不都合かと言えば、ひとつが「まこと」は平凡な少年であるという設定が説得力を持たないという点。勉強もそこそこのどこにでもいる少年と説明されても、十分に事態と状況を把握できている聡明な少年に見えてしまうのだ。
 それから、終盤に「まこと」が暗黒迷宮を実人生でプレイするという苦境に立たされているのが自分だけではなくどの子供も同じなのだと自覚して戦慄する場面がある。けれどそれを見る私たちは彼といっしょには驚かない。ネットワークで繋がっていることをさんざん見てきた私たちにとって、ノードが同期する事態は実に自然で驚くには値しないからだ。


 この「不都合」を回避するにはいくらでも方法がある。例えばネットワークの存在を直接的には示さないこと。「まこと」自身は周りの友達とだけ情報交換するばかりで、友達の友達が、遠くに住むいとこがいたり、塾の端末だったりで繋がっているようにする。しかもそれを直接地の文で説明せず、彼らの会話の中で「北海道の○○から聞いたんだけどさ」と距離をもって見せる。地の文は一切、客観的にネットワークのことを説明しない。誰もが無意識に荷担している。
 そんな風に描いた上で、自分が他の子供たちと同じだと「まこと」が自覚した瞬間にそのネットワークの存在を一気に開いて見せれば、私たちも同時に驚くことができる。


 けれどそんなことは百も承知で、そうしたミステリ的な騙しを著者はあえて拒絶しているのかもしれない。
 あとがきで著者が「小説」化を拒否したかったみたいなことを書いている。確かに洒落た言い回しもほとんど出てこない。あるいは視点の統一も果たされていない。地の文と「まこと」の視線との距離の取り方が一定しないだけでなく、他の登場人物(子供たち)に視点が移動することもありバランスが取られていない。
 「小説っぽさ」の嘘臭さ、欺瞞を拒絶しているのかもしれない。そして物がごろごろと転がっているような、その表面のざらつきで手触りを確かにするような、リアルを残したいと考えているのかもしれない。


 ただそれがあらゆる面で徹底されているかと言えばそうではなく、この小説の章立てをゲーム(ライフキング)のステージとパラレルにして形式面が整えられていたり、あるいは文庫版解説で指摘される通り色彩面を赤系統に統一されていたりする。
 それから、子供-大人の対立も崩れることなく保持される。子供のネットワークがそれとして独立しているように見えるのだ。むしろ雑誌やテレビや大人の意見が不断に入り込んで混じりあって変質しながら乖離していく様を見せてくれれば、より豊かに子供のネットワークを実現できると思われる。
 とはいえここに描かれた子供ネットが貧しいイメージに収まっているかと言えばそんなことはない。例えば冒頭付近の、友達に次々に電話をかけてゲームの攻略法の情報を得ていく「まこと」を見て母親が驚く場面はとても鮮やかに、大人がもはや子供の現実的な世界までは追えない現実を描いていて新鮮だ。
 もっとこうすればずっと豊かな子供のネットワークを描けるのに、と不満を覚えたとしても、そもそも子供のネットワークを描くという選択がなされたこと自体がとても貴重なのだ。




 これはインターネットもケータイ・スマホも登場する以前の小学生たちのネットワークの話だけれど、そうした道具が登場したことで今は何か変わったりしているのかなと思ったりした。スピードが全体的に早くなって、その早さに疲れちゃってノードがダウンするということはあるかもしれないけれど、「ノードは隣のノードとの最適化しか考えない」みたいなところは基本的に変わってないから、そんなに大きな変質はしてないんじゃないかなと勝手に想像してる。
 それより支配的に流行する興味の対象というのはまだ子供たちにもあるんだろうか。誰もかれもがポケモンを持ってる、ミニ四駆をやってる、みたいな。支配的なヒットソングがもうないのと同じように興味の対象も分散してたりするのかな。もし現時点の時代をベースに描かれるとしたら、どういったものになるんだろう、と思って。


ノーライフキング (新潮文庫)

ノーライフキング (新潮文庫)