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2016-07-08

心の疲労

昭和30年代といえば、31、32年の神武景気をきっかけに日本経済が成長軌道に乗った頃だよね。その頃、昭和30年前後から、農業については、なにかにつけて日本農業の曲がり角が言われるようになった。

農業の状況が悪かったわけではない。昭和30年は米の生産量は1240万トンを超える大豊作であったし、その後も豊作続き、35年には史上空前の1290万トンを記録した。当然、農業所得は予想を超える伸びを示していた。

それがなぜ曲がり角?

理由は他産業に比した所得の相対的な伸び率格差である。昭和20年代後半、勤労者家計と農家所得の格差はほとんどなかった。それが経済が成長軌道にのるなかで、相対的な所得格差が拡大し、生活水準の格差を農民は敏感に感じるようになった。成長の時期の相対的所得仮説が妥当する一例である。

この曲がり角意識に見られる農村や農業の崩壊し行きはじめる深層を、戦前から農村を歩いて農民の話を蒐集していた民俗学者宮本常一は鋭く観察している。

それは、彼が

「仮にこれを土着の思想とでも言っておこうか。・・・土に密着するということではなく、自分の立っている場を基準にして物を考えることと解していただきたい」

と述べ、それが「昭和30年代以降・・・大きな変化の萌芽を見はじめた。それは昔がよいとかいう問題ではなかった」という問題である。

そうして、農民、とくに女性たちから自分の子供を百姓にはしたくない」、「自分たちはどんな苦労をしてでも子供を高校へだけはやりたい、そして他郷へ出して百姓でない仕事をさせたい」という話を聞くようになったという。それで田畑はどうなると聞くと、「子供が他所でらくに暮らせるのなら、私たちの死んだあと、田畑が荒れてもいいと思う」という返答を受け取る。

そこに、宮本は、「自分の村を基準にして見るのではなく、自分の村を外からながめる眼ができて来た」ことを知る。相対的な比較の世界である。

しかしそこで、宮本は、そうした話が30歳から50歳の人に会っての話だと気づく。

「老人たちはどう考えているのであろうか」

「私の逢った老人たちの多くは、若い日に自分の村を何とか自分の頭に描いている理想の村にしようと努力した体験をもっている。その人たちの中で単に自分の家さえよくなればよいと考えているものは・・・一人もいなかったといっていい。・・・村がよくなれば村の一軒一軒の生活もよくなるのだと信じていた。」

そういう老人たちの考えをだ。

そこで、老人たちの話を聞く彼が感じるのは、「昔とちがっていちじるしく疲れて来ている」ということだ。それは肉体的疲労ではない。コタツでテレビを見る楽な生活、一見、楽隠居にみえる。「結構な世の中になった」という老人は多いがほんとうにそうか。彼には老人たちの心の深層にある、ぞっとするような心細さや心の疲労が感じ取れる。

宮本にしてみれば、長く「明治という時代の教育が作り出した人間像」の活動するところを見聞きしてきた。いま老人となって話を聞く彼らの心中がよくわかるのだ。

村は彼らの考えていたものとは別物になった。とにかく便利になった。しかしそれでよいのかと。

誰もあとを継いでくれない。村人の心はバラバラ。何もかも金、金、金という。

「その金で買えないよさを持つ村をつくることが老人たちのかつての夢であったものが、いま無残にうちくだかれている」。

「そして夢をこわされたことから来る挫折が老人たちの心を疲労せしめている。」それがまた「中年以下の人びとの多くに農業を、また村を見かぎらせることともつながっている」と。

「金で買えないよさ」を求める村づくりの挫折からくる心の疲労感、それは次の世代の村の見限りにもなり、見限る彼らは他所からの眼で村をみて、そうして金で買えるかに思える自分の家をどうするかしか考えなくなる。

「実は共同体としての村の解体は同時に古い家庭の解体をも意味しており、便利になったということと、安定した生活ということとは決して一致していない。」

いまや、心の疲労感のうちに、成長期に入った日本で晩年をすごした老人たちはとうに死にゆき、金で買えないよさを求めたその夢も消え、次のなにもかもカネ、カネ、カネの世代も死にゆき、腹に一物、コンタンのある連中が地方創生だ。村はとうに、どうしようもない心の疲労感のなかで崩壊してしまっているのに。

そうした動きに批判的でなんとかあれこれ理屈をつける農業もあるやにきくが、しょせんそれとて、カネで買えるよさしか眼中にないようにみえる。

荒れきった田畑を掘り起こして、過ぐる世代の夢と心の疲労を掘り起こす<考古学農業青年は出るやいなや。いや問うのは止そう。新たに心の疲労がやってくるだけだ。

2016-07-06

新たに得んとする骨折り

世界の変化ははやい。じぶんで変わろうとしなければ、生き延びていくことはできないだろう。

しかし我がジャパンをみていると、**を守れだの、現状をなんとかして維持しようとする方々が多数なことに気づく。やれやれご苦労なことだが、まあ報われることなく、得たものは失われていくだろうし、生き延びることさえかなわないかもしれない。

「得た物を守って失うまいとする苦労が、新たに得んとする骨折りよりも大きい場合が多い。そうしてこの事実はすでにもっとも著しく、国の制度にも、はた慣例習性の上にも顕(あら)われているのである。」

柳田國男、『日本農民史』)

「新たに得んとする骨折り」のうちにじぶんを見つけ直す必要があるなア

2016-07-02

一河の流れをくみ一樹の蔭にやすむ

例えば私が5人の人とお会いする。彼らの持つ私への印象はそれぞれよく似てはいても微妙にみな違うはず。5人が独自な曲がり具合の鏡でそこに私の印象が反響し、写しだされているとすれば、微妙に異なるあたしの5種類の印象は、彼らの個性であり、私に責任はない。むしろ私は5人に分身した私の印象をそれぞれに残しているともいえる。

だからこそ、どんな人にどのような印象を残したいかに敏感でなければならないとも言えるし、私を含めた6人がそれぞれに曲がった鏡で写し合うかたちの視界の相互性が、私たちの関係のおかしみでもあり、楽しみのもとであるのかもしれない。

しかし写し合いの繰り返しのうちに、他者一人ひとりの独自なゆがみに影響された印象は、おおむね、共通な、「信」に変じる。その人の印象の蔭にある徳性、人柄が次第に浸透し、信頼、すなわち、「その人の言に頼る」ということができるようになっていく。それは親しくなるということでもある。

「それ聖人のをしえに、信あれば四海は不残(のこらず)兄弟なりと、また聖徳太子の書(かゝ)れし史(ふみ)に、一河(いちが)の流れをくみ一樹(いちじゅ)の蔭にやすむも、みなみな此世ばかりの縁でなく、前(とき)の世よりの約束ぞと、教給ひし事を思えば・・・」(為永春水、『春色辰巳園』)

私たちは共同の関わりの内に連帯の契機を有している。それを因縁と考えるかは別にして、四海を残らず兄弟とするは信なのであった。

しかし、信なくば立たずと言うが、容易に信を得ず、したがって立てぬということがある。私たち、たまさかの一期、共に一河の流れを汲み一樹に休んでも、人の言の約したこと、相互に残し合った印象とその言葉は時に耐えていく可能性がある。な

かには一時に失われるものもあり、また長く保持されるものもある。つまり信は守りうる言、すなわち偽りなき約束のうちにあるということか。

容易に人に残した我が印象の消え去るのであれば、我が身に信なく、立つこと能わぬ。

ころ欠け

ボンヤリ歩いていて、道に転がる石ころに何の気なしに目がとまる。なんで「石ころ」って言うのかな、と。

そういえば、かつて戦前、戦中、敗戦後と商工省で物価統制の実務を担当されていた兼坂隆一さんは、『転がる石』という回想録を書かれていました。とても興味深い本でしたが、どのように、またどちらの方向に転ぶかわからないが転び始めると急な転石を書名にしていました。

なぜ転がる石なのか。世の中全体の推移と個々人の歴史。個々人はまるでころころ転がるような人生だからかもしれないからかなと思う。

喜多村信節は、石ころの「ころ」につき、「ころとはころころとまろぶもの故に名づくるなるべし」といい、まろぶ(転がるの古語)ことに小児が小石を石ころということの意味を与えています。

転がる石は小石です。江戸時代は三貨制で、江戸は金、大坂は銀本位でしたが、庶民は銭を使い、金銀にはあまり縁がなかったけど、銭のことを「ころ銭」っていいました。

小石やころ銭はとるに足らぬ存在。そうした存在ほど転がる。そうして転がれは、銭は欠けて傷む。欠けて傷ついた銭は悪銭(ビタ)といった。いわゆる「びたせん」です。

このびたせん、撰銭(えりぜに)の対象になった。支払い時に忌避されることがあったそうな。

「おかし男 銭えりける女にいへりけり うしろめたくやおもひけん 我ならでこと(ママ;ころの誤植)銭えるな かたなしや ころかけとらぬはつとなり・・・」(喜多村信節)

ぼくら転がるように人生を歩む。まるで小石やころ銭のように。そうして、ころ銭が銭えりの対象になるように、選り分けられて、場合によって人々から忌避される。

ころ欠けは採らぬが世間ということか。

2016-04-11

こつじきぶくろ

喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻之六上に、儒学者の用に立たぬ話が引かれた後で、こう語られている。

「学者は神書も仏書も歌書物語ばけものばなしの類までも多くよみて 入用次第取出すこそ好ましきことなれ 柳川幽齋の学問することは乞食袋のやうにするがよし よきもあしきも一ツに入置て用に従て使ふべしとの給ひし」

こつじきぶくろっていうのは、頭陀袋ともいうそうで、乞食や托鉢に歩く僧侶が首からさげて、貰い物をなんでも入れておく袋だそうだ。学ぶ者は、とにかくなんでも幅広く読め、そうして一つの袋に入れておく。そして、「用に従って」、取り出して使え、と。

柳川幽齋は戦国時代のころ、その教養で随一と言われたひと。やはり教養ある人は、どんな道を歩む者にもいいことを言っている。

・幅広く読め

そして

・学んだことを一つ袋に入れておけ

というのは、ポイントだなあ。中身に応じて分類し、利用するとき便利にしておこうなんて思って整理整頓に煩わされると、たいがい後から必要なときに使えなかったりする。

・「用に従て使うべし」

これも大事だなあ。

どんな知識も役立ててナンボかもしらんし。

で、考えてみれば、この二つ、いまや、ネットでみんながしてることなのかもしれない。ネットというこつじきぶくろになんでも入っていて、必要なとき検索して、知識を役立てる。入れ物をじぶんの首にさげておく必要もない。とてつもなくデカイ、こつじきぶくろがあって使える。

2016-04-06

紙餅

もう4年くらい前になるけど、餓死する人が頻出して問題になった折に

https://www.dropbox.com/s/pmba0799x9boii0/sankei20120226-gasi.jpg?dl=0

飢饉と餓死の歴史を調べてみたことがある。

まあ、こんな世界ではあるので、役に立つ知識、考えさせられる史実も多かった。

もちろん、へえ〜、なるほど、そうなのか〜という話もあった。

佐藤信淵も『経済要略』で、そこで紙餅というものを初めて知ったんだけど、こう書いていた。

「昔在(むかし)天明年中に、奥・羽両州連年飢饉にて、人民餓死せること幾千万人と云ふことを知らず。然るに我家貧なりと雖も、幸に故紙多かりしを以て、乃ち此れを水に漬け、又此を蒸し、能く擣(うつ)て些許(すこしばかり)の糠(ぬか)こごめ(米ヘンにキツ(乞)の字)を調和し、餅と為して此れを食せしに、予が十二・三歳の頃なりしが、頗る飢たる時なれば、甚だ甘(うま)く覚へたり。此れより親族皆紙餅を食ふことを知り、村内六曲庵なる『一切経』、宝泉寺の『大般若経』を始め、儒書も悉(ことごとく)食て、一郷の男女六・七百人、終に餓殍(がひょう;餓死の意味)の大難を免るゝことを得たり。故に古(いにしえ)名将の城内に多く紙を貯るは深慮ありと云ふべし。」

書類、書物のたぐいが貯まってミニマリストとしては毎日ダンシャリに悩んでいるけど、いまの紙は洋紙だから昔の和紙のようには食えないだろうなと思い、名将のように深慮はかなわぬなあと思いながら、なにが起こるか知れぬ時代だから、いざとなったら食えるものはあるかと周囲を見回しながら考えたことがある。

天明飢饉のときは、信淵の父が秋田藩蝦夷地開発の献策をして無能な藩老にうとまれ、秋田の地を追放されることになり、父と一緒に足尾の銅山を目指したころだ(足尾で父は銅精錬法研究中死す)。道中、累々たる餓死者をみながら、追放される父子。若き信淵、そうした人々を救済すべく経済学の研究に熱く志を抱いたころでもある。そうして、信淵、まだわずか12,3にして江戸に出て蘭学者、宇田川槐園(かいえん)の門をくぐるんだ。稀代の天才の活躍は紙餅で生きながらえたからなんだなあ。