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a1m’s Diary よろづ天道まかせで このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-01-05

節制

正月、さほど贅沢をし、ご馳走を食べたわけではないが、それでも普段に比べれば、それなりによい料理も食べたし、酒もたらふく飲んだ。

さて、アスから普段の生活が戻ってくるし、節制しなきゃならんと思う。

そこで、二宮尊徳の『万物発言集』にある言葉を噛み締めておく。

「若人珍味を食すと雖も、而も節(せつ)あるに如かざるなり。人皆以て謹行(きんこう)せざる可らざるなり。故に珍味と雖も飽食(ほうしよく)を為す莫(なか)れ、其の甚しきに及びては腹に満ちて安からざるなり。卒(つい)に以て病の根を設け死亡に至るなり。亦蔬食(そしよく)と雖も、食せざれば飢渇(きかつ)して安からざるなり、終に設けて以て病の根と為さしめて死亡に至るなり。所謂(いわゆる)天理にして遁(のが)るゝ能はざるなり。」

節制するに越したことはないな、食べ過ぎれば食いすぎで苦しくなり、病気になって死ぬこともあるというわけだ。また、素食がいいからといって、食わなければ腹が減って苦しいし、病気を起こして死ぬこともあると。これは天地自然の道理だから逃れることはできんと。

2013-07-03

カミ

神は漢字である。国語にてはカミ。

篤胤は『俗神道大意』でこう言う。

「漢字の神は、御国のカミと更に違(ちが)はぬ事もあれど、大かたは、謂(いは)ゆる虚字で、用(よう)の言に多く云ふて、御国の如く、実物の体言に云ふことは少いぞや。」

また『古道大意』にては、

御国で加美(かみ)と申すは、キツト其実物(じつぶつ)をさしてのみ申て、紛(まぎら)はしいことはない。然るを唐(から)で神の字の用ひ様(さま)は、実物の加美(かみ)を指て申すばかりでなく、唯、其物を称(たゝへ)て霊異(れいい)と云ふやうな心ばへにも用て、譬(たと)へば神剣(しんけん)と云時(いふとき)は、あやしき剣と云ふこと、神亀(しんき)と云へば、あやしき亀といふことになる。」

したがって、不可思議に人に思われることを指す神という漢字は我が国のカミを指示するに充分ではないというわけだ。

人にそう思われるのではなく実物の体言として使われるカミが指すのはそれ自体が霊妙さを具備する存在でなければならないが、人知はこれを測り知ることはできず、またそうすべきではないとしている。

なるほどなあ。漢字から国語の意味を考えてしまうことには注意しておかんといかんなあ。

2013-05-15

もれさりて残れるはかすのみ

おそらくは大事なことが書いてあるにちがいない書物を読んだり、教訓にあふれた人様のお話をお聞きしたりするが、どうもどんどんざるからもれて、残るものがないようなアタマなのだなと思うことがある。

そういえば、二宮翁夜話の福住正兄(ふくずみまさえ)による自序は、こう始まっていたなあ。

「おのれ翁(おう)のみもとにありしこと七年(とせ)なれば、折(おり)にふれ、翁の論説教訓をきゝたること、いと多かり。洪(おほい)なる鐘(かね)も、ちいさきしもともて、うちたらんには、その響(ひゞき)かすかなるを、いかにかはせむ。そのうへに、おのが耳は、世に云ふ、みそこし耳にしあなれば、道(みち)の心の深遠なる甘味うまみ)なるは、皆(みな)もれさりて、残(のこ)れるは、かすのみなり。・・・」

福住正兄のような尊徳の高弟にして、ずいぶん謙遜な言い方だけれど、それだけ尊徳の教えが偉大ということであるのだろう。

ここで、「しもと」とは若い小枝をいう。尊徳の教えは大きな鐘のようなもので、小枝で打っても響かないという意味かなあ。「みそこし耳にしあなれば」、とは、たぶん、みそをみそこしでこすとカスしか残らず、そうしたカスをみそっかすといってものの数に入らない者のたとえでいうわけだけど、そんな耳で大事なことを聞いてもカスしか残らないような耳だといっているのであろう。

しかし私たちは福住が夜話をまとめてくれたので、おおいに勉強になっている。じぶんの場合は、残れるかすを読んで、それさえアタマからもれていってしまうけれど、何度も繰り返し読むうちに、そうかなるほどと納得する経験ができることを期待している。

2013-04-27

臆断

各種メディアに触れていると、そこを飛び交っているのが、所詮はあれこれのプロパガンダにすぎないと感じる。そんなものに付き合っていると、かえって、柳田国男が、「郷土研究ということ」で、

「我々にはとにかく臆断の哲学はない。人を教えて信ぜしめようとするような有難い新発見もない。・・・誤っておるおらぬは手製の目安というものを持たぬから、これを判別しようとはせぬのである。・・・」

と述べ、現実を「できるだけ精確に見ておこう」とする抑制的な姿勢をみせているが、その意義に気づかされる。

つまり、宣伝的の言説に触れるほど、すでにある臆断や手前味噌な判断基準で都合のよい議論を騒ぎ立て、「教えて信ぜしめ」ようとする方々の本性が分かってしまうというわけだ。

おおむね、ふつうの人間は、いいとか悪いとか是非を説く人間に限って、なるべく責任を負わぬ位置に自らを置いて、うまいことしようとしているだけということは知っているから、現実は状況や相手によって臨機応変、歌舞伎、『助六』にも、「兵道常ならず、敵によつて変化すとは、三略(黄石公作、中国兵法書の一つ)のことば。相手によつてあしらひやうが違ふ。来(きた)つて是非を説く人はこれ是非の人」とあるだろうと、是非の人の、つまらぬ言説には動かされぬものだ。

事実こそが重要なんだな。ネットの時代、目先の是非はうまくあしらっておきたい。

2013-04-25

われはがお

得意満面、思い上がった高みからものをおっしゃる方のご講釈を受けるときがあるが、およそそういう方の独創やオリジナルではないことが調べるとすぐわかったりする。

「その云ふ説のよきかぎりは、多くは、吾(わが)師の説(こと)によりて云ひ出(い)でながら、その恩頼(みたまのふゆ)を思はず、われはがおにもの云て、吾師の説を、くじかむとのみすれども、・・・」

平田篤胤、『霊の真柱』)

ここで、「われはがお」とは、自分こそはと得意になって、思い上がった顔つきをいうが、そうした顔の口から出る言葉や主張にはじぶんが恩恵を受けてきたものを敬う気持ちなどないようだ。まあ信用しないに越したことはないか。