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a1m’s Diary よろづ天道まかせで このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-05-15

もれさりて残れるはかすのみ

おそらくは大事なことが書いてあるにちがいない書物を読んだり、教訓にあふれた人様のお話をお聞きしたりするが、どうもどんどんざるからもれて、残るものがないようなアタマなのだなと思うことがある。

そういえば、二宮翁夜話の福住正兄(ふくずみまさえ)による自序は、こう始まっていたなあ。

「おのれ翁(おう)のみもとにありしこと七年(とせ)なれば、折(おり)にふれ、翁の論説教訓をきゝたること、いと多かり。洪(おほい)なる鐘(かね)も、ちいさきしもともて、うちたらんには、その響(ひゞき)かすかなるを、いかにかはせむ。そのうへに、おのが耳は、世に云ふ、みそこし耳にしあなれば、道(みち)の心の深遠なる甘味うまみ)なるは、皆(みな)もれさりて、残(のこ)れるは、かすのみなり。・・・」

福住正兄のような尊徳の高弟にして、ずいぶん謙遜な言い方だけれど、それだけ尊徳の教えが偉大ということであるのだろう。

ここで、「しもと」とは若い小枝をいう。尊徳の教えは大きな鐘のようなもので、小枝で打っても響かないという意味かなあ。「みそこし耳にしあなれば」、とは、たぶん、みそをみそこしでこすとカスしか残らず、そうしたカスをみそっかすといってものの数に入らない者のたとえでいうわけだけど、そんな耳で大事なことを聞いてもカスしか残らないような耳だといっているのであろう。

しかし私たちは福住が夜話をまとめてくれたので、おおいに勉強になっている。じぶんの場合は、残れるかすを読んで、それさえアタマからもれていってしまうけれど、何度も繰り返し読むうちに、そうかなるほどと納得する経験ができることを期待している。

2013-04-27

臆断

各種メディアに触れていると、そこを飛び交っているのが、所詮はあれこれのプロパガンダにすぎないと感じる。そんなものに付き合っていると、かえって、柳田国男が、「郷土研究ということ」で、

「我々にはとにかく臆断の哲学はない。人を教えて信ぜしめようとするような有難い新発見もない。・・・誤っておるおらぬは手製の目安というものを持たぬから、これを判別しようとはせぬのである。・・・」

と述べ、現実を「できるだけ精確に見ておこう」とする抑制的な姿勢をみせているが、その意義に気づかされる。

つまり、宣伝的の言説に触れるほど、すでにある臆断や手前味噌な判断基準で都合のよい議論を騒ぎ立て、「教えて信ぜしめ」ようとする方々の本性が分かってしまうというわけだ。

おおむね、ふつうの人間は、いいとか悪いとか是非を説く人間に限って、なるべく責任を負わぬ位置に自らを置いて、うまいことしようとしているだけということは知っているから、現実は状況や相手によって臨機応変、歌舞伎、『助六』にも、「兵道常ならず、敵によつて変化すとは、三略(黄石公作、中国兵法書の一つ)のことば。相手によつてあしらひやうが違ふ。来(きた)つて是非を説く人はこれ是非の人」とあるだろうと、是非の人の、つまらぬ言説には動かされぬものだ。

事実こそが重要なんだな。ネットの時代、目先の是非はうまくあしらっておきたい。

2013-04-25

われはがお

得意満面、思い上がった高みからものをおっしゃる方のご講釈を受けるときがあるが、およそそういう方の独創やオリジナルではないことが調べるとすぐわかったりする。

「その云ふ説のよきかぎりは、多くは、吾(わが)師の説(こと)によりて云ひ出(い)でながら、その恩頼(みたまのふゆ)を思はず、われはがおにもの云て、吾師の説を、くじかむとのみすれども、・・・」

平田篤胤、『霊の真柱』)

ここで、「われはがお」とは、自分こそはと得意になって、思い上がった顔つきをいうが、そうした顔の口から出る言葉や主張にはじぶんが恩恵を受けてきたものを敬う気持ちなどないようだ。まあ信用しないに越したことはないか。

2013-04-16

みやび

ふつう「みやび」といえば上品で優雅なさまが思い浮かぶ。

しかし、神楽譜にあるという歌

「若きあれはみやびも知らず父がかた母がかたとも神ぞ知るらむ」

を見ると、ここで「みやび」は神に奉仕する意味で使われているというから、もっとわたしたちにキホン的ななにかを表しているみたいだ。

本居宣長は、『うひ山ふみ』で「すべて人は、雅(みやび)の趣をしらでは有(ル)べからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。」と言っている。物のあわれをしるとはわたしたちの「本たる道」を知ること、「神のめぐみのたふときわけ」を知ることなんだなあ。

たしかに「若きあれはみやびも知らず」であったなあと思う。

2013-04-05

おのれかしこからむとのみする

宣長が、かの国について言及していることはいまもそのまま妥当するのかもしれない。

「かの国は・・・いと上代よりしてよからぬ人のみ多くて、あぢきなきふるまひたへず、ともすればば民をそこなひ、国をみだりて、・・・それをしづめ治めむとては、よろづに心をくだき、思ひをめぐらしつヽ、とにかくに、よからむ事をたどりもとむる程に、おのづから賢(さかし)く、智(さと)り深き人も出来(いでく)。さるから、いとヾ萬の事に、さるまじき事にも、いたく心を用ひて、めにみえぬ深きことわりをも、あながちに考つくしなどしつヽ、いさヽかのわざにも、善さ悪さをわきまへあらそふを、いみじき事にして、おのづからさる国のならはしになりぬれば、人ごとに、おのれかしこからむとのみする故に、かの実の情の、物はかなくめヽしきをば、恥かくして、言にもあらはさず、まして作りいづる書などはうるはしく、道々しき事をのみ書すくめて、かりにもはかなだちたる心はみえずなむある。げに国を治め人をみち引教へなどするには、さも有ぬべき事なれど、これみなつくりかざれるうはべの情にて、実の心の有様にはあらざる也。」

本居宣長、『石上私淑言』)

悪賢く、利口そうに、うわべをかざり、善悪をあらそうことをたいそうな事と考え、おのれはすごいんだとする。まったく人間としてのまことの情などなさそうだ。

しかし、世界中がそうなんだろうな。まことのこころなんてのは日本人だけなのかもしれない。さかしらな方々からばかにされるお人好しということになるのだろう。少しは、「おのれかしこからむとのみする」ようなみっともない態度もとるべきか。

うごく

「感ずるとは、俗にはよき事にのみいへども、さにあらず。感字は字書にも動也と註し、感傷感慨などヽもいひて、すべて何事にても、事にふれて心のうごく事也。」

本居宣長、『石上私淑言』)

世の中が動いているようで感ずることが多い。そう感ずるのもまた心のうごきで、出来事の渦中にあることを春の季節のなかで感ずる。