論点整理

貴戸理恵『不登校は終わらない』アマゾン書評 学者見習いによる子どものためではない「研究のための研究」
 結論から言えば、地に足のついていない駄文だ。……不登校を研究材料としか見ていない学者見習いの著者のような門外漢…… 著者の問題意識は「百人の聴衆のいるシンポジウム」の派手さしか知らない人間特有のもののように感じる。

amazonの評者の発言)

この書評に対してid:palagaさん

あまり,過激なものの言い方は好きではないのですが,はっきり言えば最悪の書評です。だいたいここの欄には個人的には納得のいかない書評が多いのですが,どういうわけかこれは特にあまり好きになりません。

id:palagaさんの「最悪の書評です」エントリに対してアマゾンの評者からコメントがついた。

アマゾンの書評をまとめると3点になる*1

  1. 貴戸は「不登校エリートによる「明るい不登校」の語りが多くの当事者を苦しめている」と主張している
  2. 貴戸は研究のための研究をしている(貴戸は門外漢)
  3. 問題意識がシンポジウム向けの派手なもので地に足がついていない

コメントで新たに付け加わっている批判は2点

  1. 貴戸の「明るい不登校」批判はフリースクールの活動を阻害する
  2. 貴戸は「選択としての不登校」に代わる救済言説を提示出来ていない

*1:これは評者の書いたことをまとめたもので、個人的にはすべての項目が貴戸の評価としては不当であると思う

評者に対する評

評者は「シンポジウム」と「ボランティア」を対比し、貴戸をシンポジウムと位置づけている。

ボランティアならば、あらゆる子どもとリアルタイムで接するのでそういう事はありません。

このように評者はボランティアこそが不登校を一番知ることが出来るのだと主張している。


この評者は貴戸に対してラベリングをいくつか行っている。


「貴戸は不登校経験者だ」とラベリングするのが普通なのだろうけども、評者は絶対にこれを行わない。

いくつかのラベリング

  1. 地に足がついていない
  2. 門外漢
  3. 百人の聴衆のいるシンポジウムの派手さしか知らない人間
  4. 不登校を研究材料としか見ていない

しかし、なぜか「貴戸は不登校経験者だ」とはラベリングしない。


これをすると、恐ろしいことが起こるからだ。


つまり、当事者よりボランティアの方が不登校を正しく語れるということになる。この評者の価値観中では、貴戸や「明るいばかりじゃない」と語る当事者たちは、不登校をちゃんと分かっていないことになる。


不登校の当事者の語りを集めた本に対して「地に足がついていない」だとか、「シンポジウム」だとか、「門外漢」だとかを持ち出して批判をする。これらのラベリングがどれも的はずれで中傷でしかないのは当たり前のことだが、このくらい不当なラベリングをしなければ、評者は貴戸に勝つことができない。


属性の戦いで評者は完全に貴戸には負けている。


それでもあえて戦いを挑み「ボランティアヽ(´ー`)ノ」みたいなマヌケなことを言う。


よくわからないが、これはコメディなのか?

貴戸と評者の齟齬

基本的に評者が言いたいことはトレースできる。「研究は不登校を救うためにあるはずなのに、貴戸の研究は不登校救済を目的にしていないじゃないか」ということだ。


おそらくここには2つ予断がある。


一つは貴戸の研究は不登校経験者を対象としていて、就学の終わっても不登校を抱えて生きる人たちにインタビューをしていると言うことだ。だから『不登校は終わらない』は学校に行きたくないのに歯を食いしばって行っている苦しい不登校真っ最中の子どもたちを救うことを一番の目的にしているわけじゃない*1


また、通学している半不登校フリースクールに通学している子供だけが「不登校」ではなく、元不登校の人や不登校からひきこもりになった人も不登校なはずだ。不登校だった人に対して貴戸理恵常野雄次郎の本は「ありがとう。そして、よくも言ってくれたわね!」*2となっているんではなかったのか?


「著者の研究は誰を幸福にしているのでしょうか?」と評者は言うが、誰かを十分に幸福にするだけの成果はあったのではないかと個人的には思う。*3

*1:もちろん不登校児童に携わる人にはメッセージになるし、『不登校選んだわけじゃないんだぜ!』の方は不登校真っ最中の人たちにもメッセージになると個人的には思う。

*2:不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』のオビ。この言葉自体は当事者の言葉ではないらしいが

*3:ちなみに、このブログは「フリースクールにも行けなくて引き込んじゃった人の語りが抜けてるよ〜」と不登校からのスライド組ひきこもりの話をしていた。id:about-h:20050212とか。もちろん抜けてたとしても貴戸の研究を批判する根拠にはならない。全部をカバーするのは不可能だからだ◆不登校には「選択の物語」があるが、ひきこもりには「物語」らしきものがない。あるのは一抜けの物語とひきこもりエリートくらい。自身を肯定する物語すらひきこもりには無いんだ〜という話も以前にエントリした。id:about-h:20050201 id:about-h:20050203 

「選択の物語」は誰の物語なのか?

結局「選択の物語」が誰のための物語なのか?ということに尽きる。

「子どもの選択」という論理は、不登校を「子どもの意志」に帰し〈親〉を免責する点で、母性や父性の欠如を問われ「子育ての落伍者」とされてきた〈親〉の自己肯定感を回復させているのであり、「子どものため」であると同時に「〈親〉のため」の物語でもある。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 96 

貴戸が言うように「選択の物語」は「親のための物語」でもある。そして、もちろんその物語を生み出した居場所系の人たちの物語でもある。


不登校は終わらない』に登場するQさんは次のような態度をとっている。

最後に挙げておきたいのは、Qさんの「選択の転用」の物語である。Qさんは、Cさんと同様〈「居場所」関係者〉的な「選択」の物語を語る。しかし、Cさんが「よりよい物語」として「選択」を語ったのに対し、Qさんはそれが「よりよい」かどうかは棚上げし、現在ある「選択」の物語を戦略的に利用していた。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 237 

Qさんが不登校経験を持つ〈当事者〉として自身の不登校を「選択の結果」と提示することは、不登校の肯定へと〈親〉の翻身を促す効果を持つのである。「選択」の物語はベストではなくとも、「今あるいちばん大きな武器として使う」とQさんは語っている。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 239 


Qさんにとって「選択の物語」は「武器」として認知されている。だから、Qさんは「選択の物語」を体現して生きている人ではない。


「選択の物語」が必ずしも当事者(経験者)の物語とは限らない。


「選択物語」が不登校当事者の物語で「あろう」という予断、もしくは「あるべきだ」という思いこみがアマゾンの書評や貴戸批判者にある気がしてならない。


評者は次のように言う。

著者でさえ結論を出し切れていません。学問と呼べる代物でなく、発表段階に至るには何年間か早かったのではないでしょうか?

これはこの本の書名が『不登校は終わらない』であるのにも分かるように、結論は何百年かかっても出ない。世間や親や支援者はそれぞれの物語で「正しさ」を獲得できて「正しい行い」ができるかもしれない。でも、当事者はそんなことが出来ない。


結論が無いからダメなのではない。


不登校を自身の体験として受け入れる当事者(経験者)にとって、不登校は一言で語れるものではなく、結論が出せるものでもない。肯定しようと思っても肯定しきれず、否定も出来ない。不登校によって発生する不利益を被りながら、それでも不登校であった自分を受け入れていくのが当事者であるなら、結論は出すことは不可能だ。


この問題には結論はない。


結論が出ないからこそ、当事者は苦しむのだ。