【追記】 肝臓のMRI

母が他界して1年半経ちました。
私の頭の一部は、この山を越えればきっと母は助かると思った気持ちのまま時が止まってしまっています。その気持をバネになのか今は街おこし活動に力を入れている日々です。

さて、このブログの結末はもう出てしまいましたが、このブログはただの失敗例だと思っていただきたくありません。むしろただの失敗例だと思えばもう消してしまっていたかもしれません。
がんと戦うすべての方にあきらめて欲しくない、受け身ではなく戦う方法を知ってほしいという気持ちから残してあります。

がんに関するご相談を受けたときに必ず見せるようにしている画像をこちらにも残しておくことにします。



上は2009年8月10日撮影。がん発覚時の14cmのがんが写っています。先生が手で書いた赤い線ががんです。巨大になりすぎて熟れたスイカのように真ん中が空洞になっています。この時点で病院には見放されました。
下は2009年11月16日撮影。がん細胞が死滅して黒くなっています。

※画像処理等一切行っておりません。正真正銘の事実です。

この左右の間にカテーテルによる抗癌剤投与は1度しか打ってもらえていません。ほとんど免疫療法をベースにやれることを全部やった結果がこれです。

がんは人に任せて治るものではありません。切ったからもう大丈夫だなんて運任せにも程があります。戦わなければ治りません。逆を言えば戦えば治るかもしれないんです。

諦めずに頑張りましょう。

【訃報】ありがとう、お母さん。

これまでこのBlogを読んで頂いた皆様にご報告がございます。
2010年1月8日 11:58 肺炎により母が他界致しました。


もちろん私たちが闘っておりましたのは、肝臓がんでした。
それも5つの腫瘍のうち4つをほぼ死滅させ、
残る1つというところまできていたのに…


父の誕生日である1月7日、母はとても体調が悪く一日中寝込んでいました。
この日自分で説明出来た体調は「息苦しい」「だるい」だけでした。
どうやら息苦しさは2日前くらいからだったようですが、
今までにも血小板の低下や、壊死した腫瘍を体外に出す際の、
よくある不調の時の症状に見えました。
ちなみに12月くらいから続いていた頭痛によりロキソニン
ほぼ毎日のように服用していたのでこの日頭痛があったかどうかはわかりません。


7日と8日に何があったのかはまた後日さかのぼって更新していきます。


気づけばこの部屋のカレンダー表示は1月7日で止まっていました、
いつも母が朝起きてから変えてくれてたので。


1つの結果が出てしまっただけにこのBlogの存続を考えました。
しかし、これは記憶力が悪い私にとっての母のことを記録した日記でもあり、
1人のがん難民の成功例になりかけのデータでもありましたので
このまま残してきちんと記憶ある限り書いておこうと思います。






どうかこれだけは言わせてください。


母は、末期がんには勝っていました。
肺炎という思いがけない運命に導かれてしまっただけです。
もちろん並大抵なことではありませんが、
末期がんであっても完治する可能性はあります!!


母には完治まで頑張ってもらいがん難民の仲間を1人でも
救ってくれる存在になってくれるはずだと信じていましたが、
もうこのような結果がでてしまいました。


100%自信をもってアドバイスできるような結果ではありませんが、
もしお力になれることがあればお声かけ下さい。
私でよければお力にならせて頂きます。


ここで一旦ご挨拶させてください。
インターネットを通じての出会い、とても心の支えになりました。
暖かいご支援、ご声援、本当にありがとうございました。


父と私の2人家族となってしまいましたが、
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。



代筆の娘

最期の日

      • 8:00

父「○○(私の名前)、お母さんと居てあげて」


そんな声で目覚まし時計よりも少し早い時間に起こされた。
そうか、母はずっと眠れずにぐったりしているんだと悟った。


両親の寝室に行くと思った通りのぐったりした
母がベットに頭をもたげて座っていた。
体調的にはもう立っているだけでフラフラしてしまう程で
息遣いが必死に息を吸っているという状態になっていた。
私はとりあえず母の隣に座り
「昨日決めた通りがんセンターに行こうね。8:30になったら電話するね。」
と言った。また大丈夫だからとでも言ったような気がする。


とにかく何か食べてもらわないと体が余計に弱ってしまうと思った。

私「お母さん、とりあえずバナナだけでも食べようね。」

母「バナナと…レイシ(母の飲んでいたお茶)…ロキソニン飲む」

父にもってきてもらうように叫んだ。


待っている間も母は座ったまま、病人らしい肌色の顔とまだ頭の輪郭がわかる程の髪を
チェックする為に、10秒か20秒に1度くらいの頻度で右前にある鏡台の鏡を覗いていた。
これだけ体調が悪いのに母は女性として容貌が気になってしょうがないのだ。


父が一式持ってくると、息苦しそうにしているわりに
お茶もバナナもいつも通りに食べられた。


母はしゃべるたびにむせてしまうにも関わらず
私に入院の仕度をするように言い、必要なものを何度か言っていた。


母「パジャマは1枚でいい」「タオルも1枚」「スリッパ」


12/29-30で温泉旅行に行った為にいつものかばんに
それなりに入っていたので用意はたいして手間取らなかった。
(本来母はいつも旅行に次の日にはバックは空にしてしまう人でしたが)

すると母がトイレに行きたいと言った。どうやら先程父に連れて行って
もらったらしが、小の方なのにうまく出なかったようだ。
しかし母はフラフラして1人で歩くと危なかったので
私が後ろから脇に手を入れて一緒に行った。


その間に時間は8:30になっていた。母がでてくるの待ちながら
がんセンターに連絡をするとすぐに来るように言われた。
あとは健康食品等々を保冷剤を入れて保冷バックに入れなくてはと思ったが、
母の元を離れるわけにいかずとりあえず着替えてもらわなければと納戸に向かった。


母がクリニックに着て行っていた服が丁度何着か出ていた。
私はいつも母が似合うと思っていた、確か亡くなった祖母から譲り受けた服を手に取り、
下の服を適当に持って行った。


母「ゴムのやつ」


どうやらパンツは違うのを持ってきてしまったらしい。
どれがどれだかわからなかったので手当たり次第母に見せてOKをもらった。


母は起きてからがんセンターに行くことを父に伝えたらしく父に伝わっていたが、
父はとにかく戸をあけたりと朝やる家事をやろうとバタバタしていた。

      • 9:00

あとは健康食品…と思ったが、父に「お父さん、健康食品をバックに入れて!」
と言うと「どれを?」を言われたので父とその場で母のそばにいる役割を変ってもらった。
急いで詰め込んで玄関に持って行くと父と母が2Fに寝室から1Fの玄関に下りてきた。
母に健康食品を見せてOKをもらった。


いつもなら玄関で「いってらっしゃい」と一言言うだけだったが、
この日はなぜか応接間の窓から車で出発する母を見送った。
助手席に座った母と一瞬目が合った。先程同様母は力ない目をしていた。

      • 10:00

病院に着くなり、車いすを用意されたそうだ。
そして青シャツ(主治医)と会うなり、すぐに個室とCTと血液検査を手配された。


父からその都度電話がきた。

父「普通の人の半分以下しか呼吸出来てない状態だって。個室用意された。」

      • 11:00


父「肺炎になってるって、肺が真っ白だって。」


父「本当に酷い状態で、今夜がヤマかもしれないってさ。」


父との電話の後、また泣いていた。母ががんだと知らされた時のように。
しかし、動揺しているとTwitterの仲間から応援のメッセージを貰った。


そうだ…
がんにここまで打ち勝った人なんだから肺炎くらい乗り越えてくれる!
今夜は病院に泊ってしっかりサポートしようと決意して準備をしていた。
会社に状況を伝え、とりあえず抜けることをお願いした。
恐らく私は自分をしっかりさせないとという気持ちと混乱していたせいか
準備といっても何を準備すればともたもたしていたのだろう。


そして…11:58。父から電話が来た。


父「……お母さん今亡くなった。」


私「え?……どういうこと?え?お母さんが…えっ…どーして!どーして!」


私は自分の部屋で椅子に手を置いたまま膝から崩れ落ちた。

初の人助け

12/28日に血小板入れてもう既に血小板が足らないらしく
歯茎から血が出やすくなったり、鼻をかむと血が混じるようになった。

でも昨日はランチに焼き肉屋さんに行き、
ご飯を大盛りで注文していたり、なんだかんだ元気に見えなくもない。


そして今日はふとしたきっかけから同じがん難民仲間の人と
電話でお話しすることになった。

実は今まで私ががん難民仲間のご家族と私がメールでやりとりをしたり、
電話をすることは何度かあったが、


母は「まだ完治してないから、人様に言えるような…」
と他人と話すことはなかった。


そして今日。こちらから電話をする約束になっていたので、
電話をする前から母は明らかにそわそわとしていた。


そして電話は1時間に及んだwww


まだ母には5cmの腫瘍が残っているが、
なんだかがん難民人口の中で母が先輩っぽい立場に
いるような気がして嬉しかった。


母は今日横になって昼寝をすることもなく、
家事をはりきってくれた。
そろそろ母にとってもこういう活動を時折することは
良い意味のプレッシャーになるのかもしれない。

あけましておめでとうございます!

昨年は父、母、弟(犬)と良いとは言えないことが続いていましたが、
なんとか昨年のうちに母以外はなんとかリカバー出来ました。

発覚した時を思えばこんなに穏やかなお正月が
迎えられるとは思ってもませんでした。
本当によかった・・・


あとは母!
今年の目標は1日でも早い完治です!!


残すがん腫瘍は5cmx1つ!





皆様にとっても素晴らしい1年になりますように。
うちは絶対素晴らしい年にしますよ!

腫瘍の多くが死滅?!

がんセンターの青シャツ(主治医)からあっさりCTの結果を
貰えることになりクリニックAの先生の元に届いたようだ。
朝クリニックAの先生から電話が来た。
やや暗めの声だった。

先生「CTの結果を拝見してるのですが、造影剤が入っていかない部分が
   がん細胞が死滅していると思われます。
   このCTの結果から見る分に言えることは・・・」

[がん発覚時のCT]

14.0cm 1.3cm 3cm 3cm 3cm

[11/16のCT]

10.5cm 1.3cm 3cm 3cm 5cm


暗めの声で淡々と説明されるので悪い話をされているのかと思い、
聞き返してしまったが、どうやら先生は驚いてらしたようだ。

この5cmの腫瘍を早く殺す為にTAE(動脈で栓をして抗がん剤を入れる方法)をしてはどうだろうかと先生はすすめてくださったが、
私のあたまには今まで様々な方面から聞いた別の説が浮かんでいた。


腫瘍が死滅する前に腫れて(?)膨張したり、腫瘍マーカがあがることがある。


先生もその可能性もなくはないだろうと言っていた。
少なくとも今の治療方針のままで良いのではないかと思う。

・・・ということは、
敵は、5cm x 1 だけになった!!!!!


先生「恐らくこれは日本で初めての例かもしれません。凄いことです。もう完治するしかありませんね。」


完治・・・どこまでCTの結果が信頼できるかは
よく分からないが、夢ではなくなってきた気がした。


先生「ここまできたらもうCTではなくMRIみるのが良いと思います。
   次回お越しの時にMRI撮りましょう。」


また、先生はこれだけの壊死したがん細胞が体外に出ようと
するということは血中のカリウムが上昇し、
特に膵臓に異常を与える可能性があると説明してくださった。
ここで膵臓を痛めてしまったら膵臓という臓器は
取り返しのつかないことになってしまう。


注意事項は以下の通り。

  • 壊死したがん細胞が体外にでる際に熱がでる可能性がある、

 特にこれから2週間程は注意が必要。

  • 1日に水を3リットル飲むこと。
  • 果物と生野菜を控える。(野菜は湯通しすれば良い)


電話が終わると寝込んでいた母がトイレから出て来るのがわかった。
私はそのまま母の元に駆け寄り先生から聞いた話を伝えた。


母はまだこの話を半信半疑で受け止めるとは行っていたが、
今日はこの報告を聞いてから寝込むことなく直接母の兄弟に
電話をしたり元気に過ごした。

父はこの報告を親戚や心配してくださっている方にひたすら連絡した。
私もクリニックBや健康食品に連絡して仕事放棄の1日となった。