足るを知る
うちのブログには、なんだかすごーく読み込んでくれる人がいるんだろうかと、思ったりもした、そうです、ペトロニウスさんが比較級の世界に住むなというのを引いたこともありました。
しかし、本人は書いたことを忘れていたりもしたんだけどというか、のっぺらぼうの明日をのっぺらぼうにしないためには24時間を書ける手帳買ってきて、予定と実際のずれを楽しむのは病気になってもできると思っている。
んで、前回の訂正だが、やっぱり自分、今は恵まれているので余裕があるので日常を楽しむことができているのかもかも。
家庭も仕事もある。仕事は10年後はどうか分かんないけど、10年は心配いらず。
大学休学中も、なんかヤバくねと思う頃に就職が決まったりして、鬱々としたヤバさと本格的に向かい合っていない。
でも、実家の旧家直すのに2000万、、、今、家計を回しているのがちょうどと言えばちょうど、家にかけるお金は4万ぐらいに収まるとらくなんだけどな。
教育費削るかって、確かに今のところの教育費を積み上げは、大学卒業まで子供に借金させずに行かせられそうな(国立前提)、退職金を当てにして、教育費積立を削って家金にまわして、小遣い2万円クラブ(今が3万ぐらい)、マルクスを思い出しつつ、楽はできんすねー
つまりだ、老後資金考えてないだろ、いつか破綻かもの道はしかれているのだ。
経産省の若手さんのパワポじゃないけど?、不安が収まるときはないのだ。
それが誤魔化される足るを知るって何だろう?
何とかなるという確信。何をもって自分とするかの自分が揺るがないと思える。
結果と過程で言えば、結果はコントロールできないので、過程を重視する、自分のやり切り感を私は重視してあとは天に任せる。
何もかもコントロールできると考えたら、自分のせいになってストレス半端ないっしょ。
秋津君、小学校の時の塾の口癖は「本番で間違わなかったらいいんですよ」だったが、先生に「間違ったらどうする」と突っ込まれたような、「目標が達成できない」というのは、どんな事態だろう?
失敗しても人生は続く塞翁が馬で、どの時点の結果で、ダメだったという、ダメとはなんだろう?
死ぬより大切なものがないのもつまらない、価値観、良い価値感、悪い価値観の設定はどうとるんだろう?
過程を楽しむとしたとき、大切なのは過程ではなく「楽しむこと」なんだろうか?
「何」に満足するのではなく、何かに「満足できる」ことが生きよい、か?
あ、昼休み終わるので。