ひつそりとして八つ手花咲く

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―山頭火の一句―

詞書に「戦死者の家」と添えられ、句集「銃後」所収、昭和12年の晩秋あるいは初冬の頃か。

昭和12年と云えば、7月7日、満州で盧溝橋事件が勃発、北支事変へと戦線拡大の火ぶたが切って落とされた。

山頭火は7月14日の日記に、
「北支の形勢はいよいよ切迫した、それは日本として大陸進出の一動向である、日本の必然だ、それに対して抵抗邀撃するのは支那の必然だ、ここに必然と必然との闘争が展開される。勝っても負けてもまた必然当然であれ」などと記している。

戦線は拡大の一途をたどり、日本軍は華北・華中へと大軍を送り、11月には杭州湾にも新たな大兵団を上陸させた。
あの南京大虐殺が起こるのは翌12月のことだが、銃後の国民には知らされる筈もない。新聞は連日、日本軍の活躍や美談の類が報道されるばかりだった。

この頃、「戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも読んでいるうちに涙ぐましくなり遣りきれなくなる」とか「戦争記事は私を憂鬱にする、しかも読まずにはいられない」と記している。


―世間虚仮― 和田中式公教育再生

毎日新聞夕刊に月1回ペースで掲載される「中島岳志的アジア対談」に、昨夕、藤原和博氏が登場していたが、この内容なかなか読ませるもので感じ入った。

補習授業の「ドテラ」-土曜寺子屋-や塾講師等による学内塾「夜スベ」-夜スペシャル-などで耳目を集めた東京杉並の和田中、あの民間出身の校長先生だ。

私とすればこの連載、インタビュアー中島岳志の切り込みようも、登場させる人選についても、疑問が付されることしばしばなのだが、この対談に関しては藤原氏の独壇場、彼自身の優れた現場感覚から生み出されてきた教育実践とその論理が凝縮的に陳べられており、まさに今日的な公教育再生の手法として高評価されねばならぬと痛感させる。

その理念的柱は、学校の地域社会における「本部化」ということ。学校をこそ軸に地域社会の新たなる編成をすることである。

それゆえにこそ学校が一つの典型的モデルとして地域社会化すること、地域社会の諸要素を積極的に取り込んでゆくことも大いに必要とされ-彼の実践でいえば「よのなか科」がこれに該当する訳だが-、表裏一体の活動として取り組まれねばならないことになる。

この対談記事、いまのところネットの「毎日JP」で掲載されており、その全文が読めるから、関心ある向きには是非お奨めする。


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