「テロ」とは何か?

「テロ」という言葉を定義することには意味がない.すでに各人(政府,メディア等)がその時々に都合よく定義して使われている言葉であるから,そこにわたしが新しくもうひとつ定義を加えることは,その長いリストを更新する以上の意味はない.というより「テロ」という言葉を定義すること,それ自体がアホらしい行動である.

「テロ」という言葉を定義しようとする試みは,「テロ」という名前で呼ばれている事件から,なんらかの特徴を抜き出して,それを定義にしようとしている.ところが,ある事件を「テロ」と呼ぶためには,あらかじめ「テロ」の定義が存在していなければならない.つまり,「テロ」の定義が存在し,それにもとづきある事件が「テロ」と呼ばれ,そこから再び「テロ」の定義を導き出そうとしているのである.(いくつかの)定義から定理(結論)を導き出すことはできても,定義から定義を導き出そうとしても出てくるのは,「テロはテロだ」といった同義反復でしかない.だから「テロとは何か?」という問題は,問題自体が間違いである.間違った問題の答えを考えている時間はないので,さっさと次に進もう.

「テロ」という言葉を「なんらかの思想(たとえばイラクから米軍を追い出せ)を背景にした暴力」と定義すれば,どうなるか?アメリカイラク侵略,アフガニスタン侵略が「テロ」であるだけでなく,歴史の教科書に出てくるような世界史上の事件は,ほとんど「テロ」である.その中にはフランス革命も,アメリカ独立戦争も,アウシュヴィッツの囚人蜂起ももちろん含まれる.しかし,これらは現在,一般的に「テロ」とは呼ばれていない.

最近の使われ方は「なんらかの思想を背景にした暴力,ただし国家(の正規軍)以外の主体による」というくらいの意味だろうか.この定義にしたがえばたしかにイラク侵略は「テロ」ではない.この場合,定義上,国家が「テロ」の主体になることはありえない.

このように定義した場合に得られるひとつの結論は,「テロとは国家による暴力(その典型としての他国に対する戦争)と比較して,桁違いに規模の小さな暴力である」というものである.そしてそれは,ほとんどの場合,「国家による大規模な暴力に対する復讐」でもある.

たしかに,9月11日にアメリカでは一日で3000人弱が死亡した.しかし,ヒロシマナガサキへの原爆,ドレスデンへの空爆,いったい一日で何人が死んだのか.ヒロシマドレスデンでの死者は「9.11」よりも桁が2つ大きい.

定義以上にイメージが問題となる例がここにある.「空爆」(あるいは「侵攻」)と「テロ」というふたつの言葉を並べてみた時に,わたしたちの多くは「テロ」の方により大きな嫌悪感をもち,それは文句なしに非難されるべきものとして扱われ,憎悪の対象となる.それは,たとえば,「万引き」と「連続殺人」の二つの事件のうち,「万引き」のほうがより悪質な,許しがたい犯罪であると錯覚しているようなものである.この錯覚が政治家によって利用されているのは言うまでもない.そして,それを手助けしているのがマスメディアである(マスメディアは「一般人を巻き込む」という枕詞を「テロ」につけることによって,国家による戦争が一般人を巻き込むことがないかのような錯覚を引き起こすことにも一役買っている).

この嫌悪感と憎悪をうまく引き起こすことができる魔法の言葉が「テロ」であるけれど,これを強引に利用しようとするあまり,「やっかいな」問題がひとつ出てきた.それが北朝鮮による拉致である.

被害者を取り戻そうと「努力」している団体は,「拉致はテロだ」と言い,それを政治家に認めるかどうかせまった.川口外務大臣(選挙で選ばれた政治家ではない)は言葉を濁し,この団体系のサイトでは非難の対象となっている.さすがに彼女は官僚あがりだけあって,拉致をテロと認めると一貫性の点でまずいことになることがわかっていたので,言葉を濁したのだろう.つまり,「拉致はテロ」となると,「テロ」の主体に国家が含まれてしまう.するとアメリカ政府もテロの主体になってしまう.これはさすがに現在の日本政府の立場上,まずい.アメリカ政府もこの点に気づいているのか,「テロ支援国家」という言い方をしても,「テロ国家」とは言わない.

しかし,「拉致はテロだ」と主張している人たちにとっては,官僚的首尾一貫性などどうでもよく,金正日(それはいつのまにか「北朝鮮まるごと」に入れ替わっていく)に対する憎悪を引き起こすことさえできれば,それでよいのだから,なんとしても拉致は「テロ」でなければならない.拉致が「テロ」であろうとなかろうと,双方の政府がそれに対してとるべき態度には何のかわりもないにもかかわらず,である.

要するに「テロ」という言葉は憎しみの対象に対して投げかける言葉として,そしてその言葉を発する人だけではなく,周りの人にまでその感情を共有させる言葉として使われているのである.だから,もし政治的思想的な背景をもった暴力一般を憎むのであれば,国家の正規軍による暴力も,それとは異なった主体による暴力にも同じように「テロ」という言葉を使う,あるいはどちらに対しても使わないというのが公平な態度というものだろう.

「憎しみの対象に投げかける言葉」という点から言えば,たとえば「畜生!」という言葉と似ている.「畜生!」と叫び声を上げている人を見て,それがなにか客観的な対象を指していると思う人は誰もいないだろう.たんに「誰かに対して怒ってるんだな」と思うくらいである.しかし,「テロ」の場合には違う.それはなにか客観的な事件を指しているかのように受け取られ,そして激しい憎悪を呼び起こす.さらに,「テロなんだから,なにをやってもいい」,つまり裁判にかける必要もないし,国際法国連憲章にのっとった行動をとる必要もない,という方向に世論を誘導することができる.

憎悪の対象は時とともに変化する.だから同じ人物が「テロリスト」であったり,そうでなくなったりする.ある人物(政府)がある人を憎悪の対象にすべきだと思ったら,その人を「テロリスト」と呼べばよい.そうでなくなれば,その肩書きをはずせばよい.PLOアラファト議長は「テロリスト」からノーベル平和賞受賞者,そしてふたたび「テロリスト」,南アフリカネルソン・マンデラは「テロリスト」からノーベル平和賞受賞者,というぐあいに.他には,コソヴォ解放軍をNATOは「テロリスト」,から「過激派」,そして「ゲリラ」と呼び方を変えていった例がある.

「テロ」という言葉が客観的な対象を指し示す言葉ではなく,それを発する人の立場を表すものとして使われている以上,「イラク人の攻撃はテロではない」という主張は,言いたいことはわかるが,空回りしている感がぬぐえない.政府,マスメディアによる「イラクのテロ」という表現の意味は,「わたしたちはアメリカによる侵略戦争を支持する」という立場の告白に他ならない.この立場からすれば,占領軍に対する攻撃は許せないもの,憎悪の対象であり,したがってそれに対して「テロ」という言葉が使われる.わたしたち(イラク戦争,占領に反対する人たち)が行うべきことは,「テロではない」ではなく,「侵略戦争を,占領を是とするのか?」と繰り返し問うことでしかない.侵略戦争,占領こそがまず批判されるべき対象だとすれば,それに対する反撃を「テロ」とはとうてい呼べない.ついでに言えば,「テロとの闘い」には「ブッシュが敵と指名した者との闘い」,「ブッシュが闘っている相手との闘い」というトートロジー以上の意味はない.もうひとつついでに言えば,「テロにも反対」,「テロのない世界」というスローガンは意味不明である.「テロ」は客観的に存在するものではなく,わたしたちの見方でしかないのだから.

定義しだいで「テロとは国家による暴力と比較して規模の小さい暴力」という結論になる,と書いたけれど,これで思い出すのはオウム真理教である.彼らは暴力を組織内の人間にも一般の人に対しても向けていたが,これは国家と同じである.戦争を行う国家が自国民あるいは自国の住人に自由を保障したまま行うことは不可能で,さまざまな暴力が行使される.もっとも,国家による暴力は戦時だけに限らないが.

オウムはお布施という形でお金を集めていたけれど,国家の場合には,それは税金という名前で呼ばれる.信者からあつめるお金と自国住人からあつめる税金では,桁が違うのはいうまでもない.この集めることのできるお金の大きさの違いは,そのまま暴力の大きさの違いとなってあらわれる.包丁を買って銀行に強盗に入ったというはなしは聞くが,戦車を買って銀行に突入したなどという話は聞いたことがない.それは一般人が戦車を買えないからではない.戦車を買うほどのカネがあるのなら,銀行強盗にはいる必要がないからである.戦車や戦闘機クラスの武器にふさわしい強盗の対象となるのは,銀行ではなく他国である.

税金というかたちで強制的に自国住人から莫大なカネを集めることができるからこそ,とほうもない兵器を開発,購入することができ,そして兵隊を雇うことができるのである.一宗教団体が集めることができる程度のお金では,武器の開発にしても,せいぜいサリンくらいでしかない.だから「テロは恐怖を与えることが目的だから皆殺しにしないが,戦争は皆殺しを目的としている」というどこかで見た(どこだったか忘れた)定義は目的と結果を混同している.国家以外の主体による攻撃は人材(兵隊),カネの面で国家ほどの規模の暴力を行使しようとしても,結果としてできないのである.

お金を集めること,そして暴力の行使,この点からいえばオウムはまさに「ミニ国家」であって,組織に「なんとか省」という名前をつけていたという点は,「ミニ国家」としては些細なことである.違う点といえば,オウムから抜けることは可能であっても,国民であることから抜けることはできない,ということ.日本国民をやめることはできても,国民であることそれ自体からは,難民になる以外に抜けられない(今の日本国民が難民認定されることはありえないだろう).オウムの信者であるよりも国民であることの方が,この点ではより悲惨である.

最後にもうひとつ難しい問題を.

「万引きと殺人のうち,万引きのほうがより悪質な犯罪と錯覚してしまう」,と書いた.けれども,これが錯覚でない場合ももちろんある.つまり「Aの通り魔よりもBの万引きの方がより悪質である」という主張が妥当性をもつ場合には,錯覚とはいえない.話をもとに戻せば,「国家による暴力には正当性があるが,国家以外の団体,個人による暴力には正当性がない」,ということが言えれば,錯覚ではなく,後者による規模の小さな暴力は国家による桁違いに大きな暴力以上に憎悪の対象となってもおかしくはない.暴力の正当性は国家だけが独占できるのか?できるとすればその根拠は?ここから先は,わたしの手にはおえないけれど.