天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

月影ケ谷(つきかげがやつ)

鎌倉・極楽寺近辺にて

 阿佛邸旧蹟の碑は、鎌倉方面に向かう江ノ電極楽寺駅の手前の踏切傍にある。周知のように阿仏尼は鎌倉時代歌人で、安嘉門院に仕えて四条と称した。のち藤原為家藤原定家の子)の側室となり、冷泉家の祖となる為相を産む。『続古今和歌集』以下の勅撰集に四十八首が載る。
京都から鎌倉に下ってそこで没した背景については、阿佛邸旧蹟の碑文(右の画像)に要約されている。即ち、
    阿仏ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ 和歌ノ師範家冷泉
   家ノ祖 為相ノ母ナリ 為相ノ異母兄為氏 為相ニ属スベ
   キ和歌所ノ所領 播磨細川庄ヲ横領セルヲ以テ之ヲ執権時
   宗ニ訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ 健治三年 京ヲ出デテ東
   ニ下リ 居ヲ月影ガ谷トス 即チ此ノ地ナリ 其ノ折ノ日
   記ヲ 十六夜日記 ト云ヒテ世ニ知ラル 係争久シキニ弥
   リテ決セズ 弘安四年遂ニ此ニ歿ス
             大正九年三月建之  鎌倉町青年会

鎌倉での住いについて『十六夜日記』の中に次のように記している。
「東にて住むところは、 月影(つきかげ)の谷(やつ) とぞいふなる。
 浦近き山もとにて、風いと荒らし。
 山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず、
 都のおとずれはいつしかおぼつかなき程にしも、 …」


京にあった為相と鎌倉にあった阿仏尼とが交わした和歌の例をあげておく。
  かりそめの草の枕の夜な夜なをおもひやるにも袖ぞ露けき
                         為相
  秋ふかき草の枕にわれぞ泣くふりすててこし鈴虫のねを
                        阿仏尼


阿仏尼は鎌倉に4年間住んで亡くなったようだ。その間、為相は母と同居していたわけでなく、京都にあって、度々鎌倉へ下り母の意志を継いで幕府に訴えた。そして鎌倉を中心に歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作ったりした。娘の一人が鎌倉幕府八代将軍・久明親王に嫁ぎ久良親王を儲けている。こうした関係から晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で没した。立派な墓が浄光明寺の裏山にある。


     阿仏尼の住ひし谷戸の小春かな


  阿仏尼の住ひし場所はこの辺り踏切傍に石碑は立てり
  阿仏邸旧蹟の碑をケイタイに写してをりぬ秋風の中
  子のために所領安堵を訴へて東へ下る母たくましき
  極楽寺の境内なりき阿仏尼が住ひ構へし月影ケ谷
  訴へはわが子のためと阿仏尼がそのかみ住みし月影ケ谷
  松風と波の音のみ阿仏尼がつひの住み家の月影ケ谷
  阿仏尼の『十六夜日記』に想ひみる風音すごき月影ケ谷
  訴への通るを待ちて阿仏尼が波音聞きし月影ケ谷
  母の後追ひて下りし鎌倉に和歌を教ふる冷泉為相
  将軍に和歌の手ほどきしたればかかなへられたる母子の願ひ
  母の死後三十年にして勝訴播磨の国の和歌所領
  阿仏尼の母子が耐へし年月に涙こぼるる月影ケ谷