いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由

でも、はじめから自分で物事考えられる人なんていないんですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20090223034908
↑このひとことに釣られました
この増田氏はこのエントリを読む限り博士課程まで経験しておられるので、ポジショントーク的に学部学生を擁護する立場をとっておられる。そして増田氏と id:next49 氏の意見の間に「研究分野 discipline」の差による、意見の温度差のようなものも感じる。…のだが、増田氏がこのように学部学生を擁護する態度を採るときに、どうしても「プロセスの軽視」が擁護する側の考え方の態度に入ってきているように思えてならないのだ。
言い換えると、大学での「本当の学問(というか本当に教えたいこと)」の事を考えると、「答えを手に入れることはさして重要ではない、行き当たりばったりの中から、自力で秩序を見つけ出していくための知的能力を成長させることが重要である」にもかかわらず、学生はこれを無視してしまいがちで、Wikipediaの記述みたいな「答え」を求めたがる。next49氏の他のエントリを見ても思うが、next49氏の感じるもどかしさの原因もこの辺にあるのではないか。
教師として私は思う:だれも君の「きれいな答え」なんて見たくもない。だって、そんなものはじめからありはしない。あるのは「受け売りの答え」か「自分で捏ね上げた答え」だけだ。
 世間に放り出されたときに、そこには「正解」なんてありはしない。あるのは「自力で捏ね上げた自分の答え」だし、その積み重ね(それは後悔の積み重ねでもあるが)が日々の生活ってやつだ。そこをよりタフに生き延びる能力をつけて欲しいってだけだ。
 「知は力なり」ってそういうこと。
ボクは「はじめから自分で物事考えられる人なんていない」ってのは、はっきり言って間違っていると思う。
いまボクには4歳と1歳の子供がいる。まったく自分では何も出来ない状態から、一人前の人間の知性が成熟するまでの全プロセスを観察してやろうと目論んでいる。だから、ボクは子供がやろうとしたことにブレーキをなるべく掛けたくない。先日も、ちょっと危なっかしい作業をやりたがったので、やらせてみた。やらせたら、できた。http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20090222/p0
…「危ない」と言って止める事もできた。でも、ぼくは「やったら できた」という経験を与えられたことが嬉しかった。そして、やる前から自分の思い込みで萎縮するような人にはなって欲しくないと思っている…
さて、彼らが生まれて今に至るまでの行動をそれなりに観察して気がついたことは、人間の脳は「はじめから自分で物事を考えようとしている…いきあたりばったりだけど」ということだ。「脳」という言い方をするとAHAおじさんのM氏を連想しそうだけど、二足歩行制御から言語の利用まで、ありとあらゆる場面で脳は「はじめから自分で」考えている。そして成長するというプロセスが「行き当たりばったりの中から、秩序らしいものを自分で見つけ、出力していく」ということに他ならないことを、いま目の当たりにしている。そしてそのプロセスは学問のプロセスとも似た部分がある。
そして考えることは「習う」ことではないよ。少なくとも教師から学生へUSBメモリの中のWordファイルのように「伝達できるもの」ではない。考えるとは「学生」が自分の内側にある世界を作る能力を自分の力で再発見し、秩序化し、繰り返しデバッグするプロセスだ。その意味では「はじめからバグのないプログラム」はありえないし、「先生」はそのプロセスを経てより視界の広い地点に上がるための「デバッガ」に過ぎない。


だから「考える」というときに「模範解答」を条件反射的に連想して身構える態度は見ていてゾッとする。
そこには考えるプロセスと知的な冒険、あるいは失敗への忌避がある。


誰だよ、彼らにこんな態度を仕込んだやつは。

追記 2009.2.25 このあらきのエントリそのものはクソである…

追記 2009.2.25 このあらきのエントリそのものはクソである…

まず、数多くのコメント、ブックマーク、トラックバックを頂きました。ありがとうございます。いまのところ全部、拝見させていただいておりますが、返事を書くほうは断念させてください。すみません。


さて「いまどき」「クソ」は釣りでございます。ご不快になられた方々には、心よりお詫び申し上げます。(このエントリの執筆に際してはここここを参考にさせていただきました。あまりの効果に驚いています。)


…さて


このあらきのエントリそのものはクソである。そこには「ゾッとするようなプロセスの軽視」に対する処方箋、「自分で捏ね上げた答え」が何もないからだ。エラそうな上から目線で「いまどき」で始まるオヤヂ系の愚痴をこぼしたって何にもならない。ボクだって逆の立場なら、そう思うだろうよ:若者について語ることの気持ち悪さ。
自分が卒業研究の指導で「考える力」を育てているかと言われたら、自信なんかない。ボクにできるせいぜいの事はと言えば
 ボク「(こう卒論に書いてあるけど)なぜ?」
 学生「○○○」
 ボク「ああ、なるほどね、じゃあそいつもついでに書いておこう」
…と、丁寧に説明や思考のルートにツッコミを入れて、学生に状況の伝達をするための前提や記述法を指示し、自分の考えているプロセスの背景をひとつひとつ掘り起こして整理することだけだ。(特に説明文をゼロから作るのって、学生が当初思っているほど簡単なものじゃない。)思考を掘り起こして言語化するのは「手ほどき」がいる。そしてその程度の事しかしてやれることがない。
 「思考のプロセスを育てる」なんて、とてもおこがましい言い方だ。


…さて、「誰だよ…」と言い放ち、多くの皆さんにコメントをつけていただいたのですが、ボクは「犯人さがし」には全く興味がありません。ボクの目の前にいる学生たちをどうすれば「行き当たりばったりと、発見の快楽」「自分で道を切り開く快楽」に導けるかに関心があります。


この関連で、今回の増田氏と next49 氏のエントリに共通して見られるひとつの特徴が気になって仕方ありません。それは「先生と学生」という垂直な関係のロールモデルだけが、学問、学習のプロセスのエピソードの中に登場し、「学生どうし」のような水平型のエージェント間相互作用の話がきっかけすら出てこないことです。もちろんエントリの内容上、そうならざるを得ない部分もあるとは思います。
ですが、このような違和感を覚えたエントリはこの二つに限りません。ずいぶんと前に「はてな」を賑わした頭のいい人が成功できるかどうかの境目や、最近では頭のいい人の、無邪気さと傲慢さのあいだ - 千早振る日々など、そこに出てくる登場人物の行動を見ていると水平型の関係が研究、学習の場面で上手に出てこないと思えるのです。前者は「自分と教師」「教えて君としての同僚と教師」の関係、後者は「発表の練習のコーディネートが内輪で出来ない下級生達」「教えて君ちっくに発表のレビューをせがむ頭の良い子」のような上下関係の記述が目に付くのです。


(そしてそのような事への愚痴が「はてな」界隈のフラットな空間に解き放たれ、多くの共感と反感を呼び起こしているというのも皮肉な話だと思います。このようなフラットさが、なぜゼミ内に形成されないのか。)


大学のゼミを運営していく上でどうしても「先生と学生」のような上下関係は生じます。しかし、それと同時に「ゼミ仲間」という形での協調と共存のような水平関係が同時に形成されており、その関係が卒業研究を進めていく上で「師弟関係」を補完する形で動作していたように思います。しかしそのような関係性の形成がうまくいかないような、たとえばゼミ週間報告の際の他の研究への無関心のようなものが目立ってきているように思われます。
この部分に関しては「いまどき」と敢えて言わせて下さい。ここ数年、顕著になったような気がしますから。


…なんとかして、水平的なコミットメントの空間を、学問、学習の場で形成できないか…


実験的に実施をしてみたい項目はある。あるにはあるのだが、あらきは怠惰なので実施したことはない(いい加減ですみません)。教育改善には名大のティップス先生のように古くから知られているサイトもあるのだが、ぼくが試してみたいと思うのは次の二つである。

  1. peer-led team learning
    これは元々は北米の化学(chemistry)教育の中から出た技法らしい。クラスを少人数に分けて、各グループに上級生が何人か張り付いて、下級生の学習の進行を手助けする。自習の技法のようなものなのかなーと思っている。これは1、2年生の講義の補助手法として使ってみたい。少人数のグループにすることで学生の「場へのコミットメント」を引き出せたらいいなあ。
  2. focus groups
    これは元々はマーケティング(多分)から発生した技法で、グループディスカッションの一種である。少人数のグループで、特定のテーマを決めて、時間を決めて司会者がある程度議論の流れを制御しつつ、フリートークを流していく。(本来の目的はここでユーザのニーズを引き出す事。ブレインストーミングにも似てるような気がする。)ルールとしては「どんな意見でもネガティブなコメントをしない」など。アイディアを練り上げるために複数回、複数グループを対象に実施する。
    これを卒論のテーマについて、学生を司会者にして実施してみる。当該学生以外のゼミ生のコミットメントを引き出せたらいいなあと思っている。
うまくいくかどうかはやってみなくちゃ分からない。だから面白い。多分、「文化」とか「風土」を作る最初の一歩ってそんなものなんじゃないかな?


長文をお読みいただきありがとうございました。