冷雨のなかに眼の福--梅模様

朝から前任校(高校)の卒業式に出かけた。予報どおり雨天である。
“春雨じゃ濡れていこう”とはいかぬ。雪になっても可笑しくないほどの冷雨の一日だった。

およそ2時間の卒業式。格調は崩れず、和やかさはあったが。何故か厳粛さと感動を呼ばない。拍手の場面は多いが、涙が見られない。巣立ちゆく卒業生にも、参列した多くの大人たちにも。何故だろう。心に染み込む言葉と語りがなかったからだと思う。
昨日と打って変わってたサラリとした卒業式。味気なしというべきか・・。

4月半ばと錯覚するほどの一昨日の温暖さがウソのような春冷の一日、Back to winterのせいか、季節感が錯綜する。でも季感を誘うのものは晴雨、寒暖だけではない。
春一番も吹いた。桃の節句も過ぎた。奈良東大寺二月堂の「お水取」の時節だ。12日、二月堂の石段下の井戸から仏前に供える水(香水)を汲む儀式が行なわれる。修二会という。

 水とりや氷の僧の沓の音(芭蕉)
この句にあるとおり、三月半ばとは言え「お水取」の季感に春本番は感じ取れない。
街場に住んでいると季節感にうとい。幸田文女子が記している----
「都会の生活をしていると、季節を感じることが暦よりずっと遅れがちである。花が咲いてから春だと思い、葉が落ちてから秋だとおもう。それでもむろん結構なのだが、なんだかそれでは一と足も二た足も遅くて、『けはいの愉しさ』は感じられない。それでつい、一番早い季節のけはいを探りたいと思うのだが、季節を探って鵜の目鷹の目というのもあさましい。けれども、こちらに季節を待つ心があると、ふとした折に自然うまい拾いものもするものである。福の神に逢うというのだろうか、眼にも気もちにも浸み入るような、季感をいっぱい含んだ風景に、ひょいと出会うことがある。そんなときこそ、ほんとに福というものを信じる。先日も早い春のけはいを見せてもらって、福を感謝したわけなのだが。---」

幸田文 季節の手帖』(平凡社)のなかの≪早春≫の一部だが、娘さんの青木玉女史が≪あとがき≫のなかで---
「・・日々訪れる季節の移り変わりに母が気付かない筈はない。季節が動くのに先駆けてその兆を待ち受け、その盛りを時に合わせて楽しみ、終わると時の名残を目に止めて、再びめぐり来る時に備える気持ちを持つならば、新たに迎える季節のそれぞれを、落ちなく迎えられることであろう。いわばその年の贈り物を余さず迎える細やかな思いがあって、はじめて花の姿を、音にならない気配でつなぎ止められるのだ」
帰路、家の近くでバスを降りた。傘が離せない。そのうえ、風を強い。が、家の門前で傘をたたむと、隣家の鮮やかな白梅が目に飛び込んできた。桜花爛漫ではないが、梅花満開だ。灯台下暗し、探梅など無用だ。思わぬ目の福を頂戴し、雨などモノともせず、白梅の夜景をカメラに収めた。低木に積もる雪のようだが、紛れも無き白梅だ。

 『梅が香やどなたが来ても欠け茶碗』(一茶)
「欠けた茶碗しかない貧しい暮らしだが、庭の梅の香りがこのうえないもてなしになる、という句だ。」(坪内稔典『季語集』より)
古希が近づき、ボクにも少しは「季節を待つ心」が芽生えているようだ。