人類は「宗教」に勝てるか

「人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉」(町田宗鳳)読了。
一神教を批判する際には、一神教的であってはならない。

人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉 (NHKブックス)

人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉 (NHKブックス)

目次
第1章 エルサレムは「神の死に場所」か
第2章 世界最強の宗教は「アメリカ教」である
第3章 多神教コスモロジーの復活
第4章 無神教的コスモロジーの時代へ
第5章 “愛”を妨げているの誰なのか
第6章 ヒロシマはキリストである

 反宗教本として記憶に新しいものとして、ドーキンスの「神は妄想である」*1がある。しかし、たぶん「神は妄想である」は宗教を持つ者には鋭すぎる。あれは科学よりの人間が頷くものであって、宗教を持つ者、捨てきれない者には届かない。それに対し、本書であれば、届く。なぜなら、「反宗教」という主張が、「一神教的」でないからだ。著者が提案するのは無神教、というあり方。

ここで念を押しておきたいのだが、無神教とは無神論のことではない。無神論共産主義のように、神の存在を否定する思想であるが、私がいう無神教は、神仏の姿が消えてしまって、われわれの体内に入り込んでくることである。それは神仏を礼拝したり、論じたりすることもなく、神仏とともに生きていく生き方のことである。

 宗教を批判しているのに、宗教的。著者はまず一神教の引き起こす数多くの問題を指摘し、次に現代を支配する一神教アメリカ教」を批判する。これらの問題を克服する存在として、多神教の存在を提示するが、多神教においても「自然への甘え」などの問題があるとして、完全には肯定しない。このような流れで、著者は無神教を提案する。
 ドーキンスはどちらかというと科学的に一神教を批判したが、その批判の仕方は一神教的であったようだ。宗教が排除され、科学的思考が普及すれば幸福が訪れる、という考え方はある程度正しいのかもしれないが、極めて一神教的だ。キリスト教イスラム教の例を見れば分かるように、一神教どうしは非常に相性が悪い一神教による支配、あるいは一神教うしの対立から脱却するためになされる主張は、一神教的であってはならない。本書のように多神教的なアプローチでなければ、当事者たる一神教の人々には届かない。
 日本人として覚えておくべきことは、多神教的なアプローチが世界において貴重であり、時として極めて有効なやり方になり得るということだろう。そして、このことはたぶん、宗教が絡むときに限らない*2

*1:書評:神は妄想である - けれっぷ彗星

*2:個人的には、日本において環境問題が一神教的に捉えられることには非常に抵抗がある
  →本屋の「環境問題」コーナーを見て思うこと - けれっぷ彗星