日本刀のはなし



 九月四日から「はてなダイアリー」を書き始め、今回で五十回目になりました。「五十回だからどうした」と云う感じですが、まあ、一応は区切れににはなるのでご報告しました。自分としては、まずまずのペースなので、この調子でやっていこうと思います。


 今回は日本刀についての「小ネタ」を書きます。
日本では銃刀法がありますので、持ち歩いたり簡単に買うことは出来ません。依って、大抵の人が実物を手に取って見る機会もないので、私も同様ですが、刀剣店のショーケースか博物館でしか見たことがありません。しかし、ほとんどの人が時代劇の影響で、どのような形なのか、どのように使うかをよく知っています。普通の人が日本刀を考えると、「包丁のよく切れる物」ぐらいのイメージでしょうが、とんでもありません。本物はとてつもなくよく斬れるのです。

 慶長二十年(1615年)、大坂の役では柳生但馬守宗矩が、主君徳川秀忠の陣に殺到する木村重成の鎧武者七人を、たちどころに斬り伏せました。鉄の鎧や兜を、太刀で斬ることが出来るのか、不思議だったのですが、本当に斬れるようです。
幕末の剣豪、鹿島神傳直心影流・榊原鍵吉友善は徳川家に代々仕える直臣ですが、勝海舟の従兄弟で、江戸随一の剣聖と云われた男谷精一郎の弟子でした。榊原は明治二十年(1887年)に催された、明治天皇天覧武術大会で、「鉢試し」を行い、見事にに成功しました。「鉢試し」とは上質の鉄製兜を剣で斬るのですが、その日は既に二人が失敗をして、三人目の榊原が愛刀の同田貫で挑むと、見事刃は兜に五寸程食い込みました。同田貫には刃こぼれ一つ無かったそうです。この場合は物を置いたまま試す、「据物斬り」ではありますが、乱戦の中で斬った柳生宗矩は畏るべき剣の使い手であったと推測できます。「鉢試し」では、僅か五寸の切込みでしたが、実戦で生身の人間が被っていれば、頭蓋骨を破壊するのには十分です。


 日本刀の斬れ味の秘密は、その構造にあります。日本刀は四種類の鋼から出来ており、それぞれ心金、棟金、刃金、側金に分かれています。それぞれの鋼を丹念に重合わせ、高温で加熱してから叩き伸ばし不純物を取り除き、刀身を冷水に漬けて「焼入れ」をします。日本刀の焼刃を顕微鏡で見ると、大小の粒子から出来ていますが、粒子の大きい物は、肉眼でも識別することができ、鑑定する際の「煮え」と呼び、肉眼で識別出来ない物を「匂い」と呼びます。「煮え」は刃文と呼び、白く光っている部分が、マルテンサイトと云う物質、黒い部分がトルースタイトと云う物質です。前者は極めて硬く、後者は比較的柔らかいので、刀を研ぎ仕上げしていると、柔らかいトルースタイトは磨り減り低くなり、硬いマルテンサイトが残ります。これが斬れ味と、どの様に関係するかと云うと、刃の面がデコボコしている為、表面積が小さくなり、切断物に当たった時の摩擦係数が少なくなる訳です。肉屋さんが包丁を鑢(ヤスリ)で研ぐのは、これと同じ原理です。


 刀ではありませんが、徳川家康の忠臣・本多平八郎忠勝の槍は、「蜻蛉切」と呼ばれ、槍先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったと云う逸話から命名されました。そんな間抜けな蜻蛉がいるのか、信じられない話ですが、何かの弾みで当たった時に斬れたとすれば、あながち眉唾とも思えません。


 さて、「幕末物」を暫く書いてきましたが、少々飽きてきたので次回からまた戦国時代にテーマを戻します。
最近テレビのニュースで見たのですが、「戦国武将ギャル」と云われている、武将ファンの若い女性が増えていると報じられていました。武将好きは、「親父」の趣味と思っていたので驚きです。戦国武将の何が、現代女性の注目を浴びているのか気になるところですが、これを機会に、この日記も若い女性の読者が増えてくれれば、楽しみも増えます。

否、若い女性に「迎合」する、親父のやらしさではありませんので、ここで言い訳をしておきましょう。