Hedgehog’s dilemma サンプル

1-1.書籍というもの

 ドアがノックされたのは、一九〇〇をきっかり五分過ぎた頃だった。
 ぼんやりと読書をしていたロイは、人待ち顔を隠すように本を手にしたまま、ゆっくりと玄関へと向かった。別に待っていたことを知られても構わないのだが、そういうポーズを取った方がスムーズに場が回ることを彼は知っていた。
 微かな軋み音を立てて開いた扉の前には、いつも通りの無表情を貫く彼の副官が立っている。
 夜の帳が開こうという曖昧な時間。少し胸元の開いた襟の高いブラウスに、深いスリットの入った黒のタイトスカートを合わせた私服姿。そんな服装であるにも関わらず、彼女は上官に対する副官のポーズで彼に向かって綺麗な敬礼をしてみせる。
「折角のお休みにお邪魔してしまい、申し訳ありません」
 だから、ロイも上官の顔を崩すことなく、鷹揚に彼女の敬礼に答えてみせる。
「気にするな、許可を出したのは私だ」
 ロイの自宅というプライベートの場所であるにも関わらず、彼らの会話は常の執務室で交わされるものと何ら変わりのないものであった。声の抑揚も、話す距離も、心の距離も、何もかも。
 その事実に安堵したかのように、リザはロイだけに分かる程度に表情を緩めた。ロイはそんな彼女の目の前に、ポケットから取り出したものを手渡した。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 リザは彼の手からそれを受け取りながら、それでも少しの躊躇いを捨て切れぬように再び謝罪の言葉を吐いた。ロイは呆れた風を装い、微かに笑った。
「だから、気にするなと言っている。部下のケアも上官の仕事のうちだ」
「ですが、中佐には他にも部下がいらっしゃいます。私だけがご迷惑をおかけするのは、やはり」
 そう言いさしたリザの言葉を最後まで聞かず、ロイはさっさと自宅の廊下を歩き出す。慌てたように扉を閉め彼を追うリザのハイヒールが廊下を鳴らすカツカツという音を聞きながら、ロイは用意しておいた言葉を背中越しに彼女に投げかけた。
「構うな、先週慰労の飲み会で向こうのケアも済ませてある。それに、あいつ等は飲ませておけば済むが、君の場合はそうはいかないからな」
 長くもない廊下を歩きながら、堂々巡りに陥りそうな会話に一方的に終止符を打ったロイは、リビングに辿り着くと如何にも彼女には興味がないといった体でどさりとソファーにその身を沈めた。彼を追う足音は、律儀にソファーの背後でぴたりと止まった。読書灯のオレンジ色の光の下でロイは手にしていた本を開き、栞を挟んでおいたページを探しながら、彼女に背中を向けたまま言った。
「右側のグリーンの札のかかった扉だ。好きに使ってくれたまえ。私はここにいる」
 彼女を振り向きもしないロイの姿と、ソファーの前のローテーブルに積まれた本の山、そしてロイが腰を据えて読書をする印である珈琲サーバー。それらの存在を確認したリザはようやく完全に表情を緩め、「ありがとうございます」と言うと、くるりと彼に背を向けた。ロイは手元の本のページを繰りながら、背後から遠ざかっていく足音を送る。
 カチャリ。彼女の銃を扱う繊細な指先が、彼が渡した小さな鍵を鍵穴に差し込む音がした。音もせぬほど静かに彼の家の書庫の扉を開いた彼女が、もう一度彼の方を振り向く気配がした。
 知らぬふりで読書を続ける彼の背後で、ふっと小さな吐息が響く。それは安堵の溜め息であったろうか。それとも、緊張の溜め息であったろうか。ロイは判断の出来ぬ問いを己の胸に発し、集中出来ぬまま書物の上の文字を追う。
 扉を閉める音と鍵の閉まる音が聞こえた。ロイはその音を背中で確認するとゆっくりと振り向き、リザの姿を飲み込んだ書庫の扉をじっと見つめた。

          §

 事の発端は、彼が指令室に持ち込んだ数冊の古い書物であった。
 軍人であると同時に国家錬金術師でもある彼の家の書庫には、沢山の貴重な書物が存在する。その中には彼が最近求めた本もあれば、ホークアイ師匠から受け継いだ古い書物まで、様々なものが混在していた。そして、沢山の書物を所持しているということは、その管理に振り回されるというおまけも付いてくるということでもあった。
 書物というものはどれだけ大切に扱おうとも、どれだけ繊細に手入れし保管をしようとも、それが紙で出来ているという性質上、どうしても劣化を免れぬものであるのは仕方のないことであった。ロイも細心の注意を払いそれら書物を扱ってはいたが、それでもページが破れたり、表紙が取れてしまったりする本も出てきてしまう。
 勿論、彼も錬金術師であるのだから、自身でそれらを修理出来ないこともない。だが、古い錬金術の書物を復元するに際し、紙の質や製本技術を復元するには、彼の持つ知識だけでは心許ない面があった。
 だから、ある日、ロイはそれら傷んでしまった本の修復を中央図書館の分室に依頼するべく、数冊のそれらを職場に持ち込んだのだった。
 だが、そんな日に限って、普段は平和な事務処理の時間帯に事件が起こってしまう。彼の小さな私用は、慌ただしい現場の嵐の中に飲み込まれてしまった。結局、己の椅子を温める暇もなく執務室から現場へと飛び回ることになったロイは、自分が本を職場に持って来たことさえすっかり忘れてしまった。だから、無事に事件を解決した彼は、そのまま部下達を連れて意気揚々と夜の街へと繰り出してしまった。
 しかし、慰労の飲み会が終わった頃、貴重な古書を机上に置きっ放しで帰って来てしまったことを彼はふと思い出してしまう。思い出したとなれば、師匠から受け継いだものを無下に放置することも躊躇われた。結局、根本的なところで生真面目な彼は、仕方なく酔いと疲労にふらつく身体を引き摺り、司令室へととんぼ返りをすることになったのだった。
 疲れ切った彼がようやく己のデスクに戻った時、彼は思いがけず、そこにリザの姿を見つけた。何故か彼女は思案に耽るような顔をして、彼の机の前に立ち尽くしていた。
 そういえば、彼と共に一日テロリスト相手の作戦に携わり、彼同様に疲れきった顔をしたリザは、彼の勧めに従わず慰労会に出るよりも残務を片付けることを選び、司令部に残っていたのだ。ロイとしてはそこまで働くことも無いとも思うのだが、彼女は頑なだった。だから、ロイは仕方なく彼女を置いてチーム・マスタングの面々を率いて酒場へと繰り出したのだ。
 しかし、今、リザは手元に書類の一片すら持たず、ただ何かを確認するように眉間に皴を寄せ、考え込んでいる様子であった。彼女の難しい表情に、ロイは反射的に内心で身構えた。
 何か彼女に見られてはまずいものを、机上に起きっぱなしにしていただろうか? 己の日頃の行いから、ついそんなことを考えてしまいながら、ロイはそっと彼女の様子を伺った。お小言を食らうにしても、理由が分からなければ言い訳の対策も立てようがない。
 ところが、そんな情けないことを考えるロイの目の前で、リザは思いがけない行動に出た。
 なんと彼女は、ロイが机上に置きっ放しにしていた錬金術の本に手を伸ばしたのだ。
 まるで、何かを確認するようにリザの細い指先は革張りの本の表紙を撫でていた。型押しの凹凸をなぞるように指先を本の表紙に滑らせたリザは、やがて、そっとその本を胸に抱いた。大切なものを抱き締めるように丁寧にそれを両手でぎゅっと胸元に抱え、彼女は僅かに俯き、大きく深呼吸をした。
 夜目には彼女が手に取ったものが何かさえ最初は分からず、酔ったロイはただ全く理解不能な彼女の突飛な行動を呆気にとられて見守った。
 何だ? 彼女は一体何をしている? 予想外の光景に彼女に声を掛けることすら忘れ、ぼうっとロイはその場に立ち尽くした。
 そんな彼の目の前で、リザは本の匂いを確かめるようにすんと鼻を鳴らした。そうしてふっと吐き出される呼吸の音に合わせ、彼女の表情がいつもの有能な副官としての顔を崩し大きく緩んだ。
 そんな彼女の表情は、ある種幸福そうにさえ見えた。彼の副官になってずっと厳しい表情ばかりを彼に見せ続けてきた彼女が、思いがけず垣間見せた過去を彷彿とさせるような柔らかな表情は、痛みを伴いながらも疲れた彼の胸に染みた。ロイは微かな笑顔にも似たその表情に、しばし見惚れた。
 そしてロイは、すっかり忘れていた過去の記憶を思い出したのだ。昔、まだ彼がホークアイ師匠の元で修行をしていた頃の出来事を。
 彼が始めて師匠の許可を受け、本を借りる為にホークアイ家の書庫に入った時、誰もいないと思っていた書庫の片隅に小さなリザを見つけたことを。滅多に人の来ない、微かな黴臭さと紙と羊皮紙と皮の匂いに満ちたその空間が、小さなリザの憩いの場であったことを。
 本に埋もれ書庫の隅で丸まっていた小さなリザと、本を胸に抱き穏やかな顔をする今のリザが、彼の中でオーバーラップする。
 三つ子の魂、何とやらか。
 そう考え、ロイはそっと小さな笑みをその頬に浮かべた。その時、不意に我に返ったらしいリザが、はっとしたようにその穏やかな表情を消した。その表情の変化にロイは自分も過去から意識を引き上げ、一瞬で現状の対処へと思考を切り替えた。
 己の存在に気付いた彼女が決まりの悪い思いをしないように、彼女に言い訳を考える間と開き直るしかなくなるタイミングを与える為、ロイは己の酔いを隠し、さっさと自分から彼女に声をかけた。
「何か懐かしいものでもあったかね?」
「中佐! も、申し訳ありません!」
 勝手にロイの私物に触れた事を、叱責されるとでも思ったのだろう。ロイの方が驚く程に慌てふためいた様子のリザは、胸に抱いた本をさっと机上に戻すと、吃りながら謝罪と敬礼とを同時にロイに向けてきた。
 そんなことくらいで怒りはしないものを。
 ロイは彼女に向かって歩み寄りながら、彼女が机上に置いた本に視線を落とした。その本が己が師匠の書斎から持ち出したものであることを確認し、ロイは己の推測が間違っていなかったことを確信する。
 彼女は、父の書庫で膝を抱えていた小さな頃の自分を思い出していたに違いなかった。デスクまで辿り着いたロイは、机上の本を指先でなぞる。
「そう言えば、師匠の書庫は幼い頃の君の隠れ家だったな」
 過去を思い出し目を細めてみせるロイに、リザは珍しく赤面し、言い訳の言葉を探すように口をパクパクさせた。ロイは酔いの勢いに任せ、彼女をからかうように言った。
「初めて書庫の片隅で丸くなっている君を見つけた時は、本当に驚いた。まさか錬金術に最も縁の無い筈の君が、あんな場所にいるとは思わなかったからね」
「昔の話はお止し下さい」
「そうは言うがね、君。君の方こそ昔を思い出してしまったのではないのか? あの書庫は君の避難場所だった」
「ですから、昔の話です!」
 明らかに気を悪くした様子のリザは、彼の言葉を無視する方向でこの場を納めてしまう気であるようだった。
 だが、先程の彼女の穏やかな表情と安堵した様子は、普段彼女を副官として過酷な状況に追いやっている自覚のあるロイにとっては、彼女の心労に対処する一つのヒントのように思われた。ロイは先程までと少し口調を変え、真摯に彼女に問いかける。
「今でも、君は書庫にいくと落ち着くのかね?」
「そんなことは」
 未だ彼にからかわれていると思い込み、即座に彼の言葉を否定しようとするリザに、己の言葉に彼女をからかう意図ではないことを示すように、ロイは両手を広げて掲げると、武器を持っていないことを証明するようなポーズを取ってみせた。
「すまない、少し悪ふざけが過ぎたようだ。君の意外な表情を見たせいで、つい昔を思い出してしまった。許してくれ」
 そう言ってからロイは、先程の過去と今のリザのオーバーラップを思い出しながら、言葉を続けた。
「ただ、今の君を見てふと思ったんだ。もし君が昔のように書籍のある場所に落ち着きを感じ、避難場所としての書庫に懐かしみを感じるのなら、私の書庫を提供できるのだが、と」
 ロイの申し出は、彼女にとって予想外のものであったらしい。リザの険しい表情が一瞬豆鉄砲を食った鳩のようにぽかりと空白になった。ロイは両手をおろすと、静かに彼女が机上に戻したぼろぼろの本に視線を落とした。アルコールが彼を饒舌にし、ロイはひとり話し続けた。
「君が私の副官になってから有休も消化できない激務を強いている程度の自覚は、私にもある。付き合わせて悪いとは思うが、回ってくる仕事は未だ中佐である私には選べんから、どうにもならん。だが、あの家に帰る暇を取らせることさえ出来んと言うのは、上官として甚だ情けないことだ」
 酔いの勢いに任せ、ロイは普段から思ってはいてもなかなか口に出せない事を一息に並べ立てた。彼は彼女が抱えていた本を手に取ると、視線を再びリザへと戻した。
「それなら、追想の疑似体験でも提供出来れば、それも悪くない。そう思っただけだ」
 彼女はいつもの冷静な副官らしい無表情を取り戻しながらも、微かに目を伏せるようにしてロイと視線が合うことを避けていた。彼は彼女の表情を読むことをせず、胸に浮かぶ言葉だけを淡々と告げた。
「師匠から譲り受けた、いや、君から、と言った方が正しいのかな? どちらでも構わないが、君の家にあった本も結構収納してある。そして、おそらく我が家の書庫の雰囲気も、あの家の書庫と似ていると思う」
 そう口に出した事により自分でも改めてその事実に気付いたロイは、驚いた顔を隠さず、視線を再びリザから手に持った本へと移した。
「ああ、そうか。だから私はあの書棚をわざわざ二重構造に作ったのか。師匠の本棚の奥から本が出てくる隠し扉のような造りが、如何にも『秘密の研究室』といった風情があって憧れたんだった」
 思わず声に出して己に確認をするロイの言葉に、ずっと黙って彼の言葉を聞いていたリザは、堪えきれなくなったようにフッと小さな微笑をもらした。
「ええ、そうです。昔から父の書庫から出て来られるたび、同じ事をおっしゃっておいででしたよ、貴方は」
「はて、そうだったろうか?」
 記憶の棚を探してみても、彼女にそんな話をした覚えはどこにも残っていなかった。きっと当たり前にそんな話をし過ぎて忘れてしまったのだろう。ロイはそう考えながら、どうやら臍を曲げるのを止めてくれたらしいリザに、改めて提案した。
「途中で話が脱線してしまったが、もし、君さえ良ければ」
 そこまで言って、ロイはふっと口を噤んだ。
 しまった。
 予測もしなかった程に真面目な彼女の表情と、冷静に記憶を探った間が彼の中の勢いを一旦止めたせいで、彼はつい我に返ってしまった。そして、気付いてしまったのだ。自分がアルコールに任せて、彼女に軟派紛いの言葉を吐き続けていることに。
 これではまるで、自分は書庫を餌に女を釣ろうとしている軽い男のようではないか。いや、まぁ、普通の女は本や書庫では決して釣ることは出来ないのだが。しかし、過去の罪故に上官と副官とのラインを超えることは決してないであろう彼女が相手とは言え、女性に対し自宅に来いと誘う行為は下心を持っていると思われて仕方のないものであろう。
 事件の収束と酒精が与える高揚に任せて、思いつくままのことをベラベラ喋り続けた自分に頭を抱えたロイは、言いかけた言葉の行方をどうするべきか考え込んでしまった。
 リザはひどく真剣な顔で彼の言葉を待っている。口から出た言葉はどれだけ後悔しようと、無かったことには出来ない。どうにもならない状況にぐるぐる思考を空回りさせていると、先程までの慰労会の席での度を超えたアルコール摂取量のせいで今更ながら頭も回ってくる。
 大体がいつもの如く上官を上官とも思わぬ部下たちに飲み潰されかけ、疲労した肉体に大量のアルコールを流し込んだ状態で、うっかりいつも彼女との間に築いている厳密な距離を崩しそうになっているくらいなのだ。彼の肝臓は、追いつかぬアルコールとアルデヒドの分解に悲鳴を上げている。分解し切れぬ毒素が、彼の脳味噌だけでなく肉体を蝕むのも当然のことであった。
 くそ、あいつら!
 彼は女の前でみっともなく口元を押さえ、本を机上に伏せるようにもう一方の手を執務机について下を向いた。驚いた様子のリザの声が、彼の肩口の辺りから聞こえた。
「大丈夫ですか? ご気分が」
「ああ、構うな。いつも通り、あいつらにやられただけだ」
 ロイは吐気に襲われながら一応の弁明をし、肩を竦めた。言葉の途中で彼女から逃げ出すような形になってしまった状況に、ロイは己を腑甲斐なく思ったが、そこに微かな安堵があったことは否定出来なかった。
 曖昧な状況に逃げるように、ロイはこのまま話を打ち切ってしまうことにした。
「場を外す。話の途中ですまない」
「肩をお貸ししますか?」
「いや、構わないでくれ。流石にそれは情けなさ過ぎる」
 自分が言い出した言葉から逃げ出すことも、十分情けなさ過ぎるのではあるのだが。そう考えながらロイは机上に置いた本から手を離し、よろめきつつ己のデスクから離れた。
「君もいい加減疲れているだろう。残務がないのなら、もう帰りたまえ。いや、あったところで明日に回せばいい。働き過ぎは毒だ」
「イエス、サー」
 いつもより歯切れの悪い彼女の返答が耳に響いた。
 彼女はひょっとして己の言葉の続きを待っていたのだろうか。そんな疑問が彼の胸をよぎった。
 だが、そんな彼の自問を吹き飛ばすような吐気が彼を襲い、彼は堪らずトイレへと駆けだした。そんな上官を見送るリザが吐き出されなかった言葉に何を思い、そこから逃げ出した彼をどう思うか、そういった諸々の問題を考えることを放棄し、彼は不快な肉体の衝動に従うしかなかった。
 彼が胃の内容物を全て空っぽにして執務室に戻った時、執務室には彼女の姿はなかった。それは戻ってきた上官が己の醜態に対する弁明をせずに済むようにという彼女なりの配慮であったのだろう。
 ただ、彼が放り出していった錬金術の本はきちんと元の場所に戻されており、机上はまるで先程までやりとりが何もなかったかのように、朝と同じ静けさを取り戻していた。
 宙ぶらりんになった己の感情と、酒の勢いで意図せず中途半端に踏み込んでしまった彼女との境界と、それを中途で放り出した己に、ロイは文字通り頭を抱えた。だが、何をどう反省したところで、全ては後の祭りだった。
 結局彼は、全てを無かったことにするように自宅の書庫から持ち出した本とシクシクと痛む胃と様々な意味で痛む頭を抱え、家路へとついた。全ては明日、彼女と顔を合わせてから考えよう。彼女の出方を見て、それから対処法を考えればいい。今までも、そうやって自分は上手く己の感情を隠し、彼女に対して上官の顔を保ってきたのだから。そう考えながら。
 だが、その翌日、ロイは思いもかけない彼女の言葉を聞くことになったのだ。
 後日、彼女の訪問を受け入れる状況を生みだすこととなる、彼女の言葉を。

         §

 ロイは数週間前の過去の回想から現在へと立ち返り、彼女がプライベートで自分の家にいる事実を敢えて上官の視点で見つめ直し、書庫の扉から己の視線を剥がした。
 キィ、と彼女が消えた書庫の扉の奥で小さな椅子の軋む音が聞こえた気がした。だが彼は直ぐに、あの分厚い防音性の高い扉の奥の音が聞こえるわけもないという己が一番よく知っている事実に苦笑し、今度こそ本当に意識を手の中の本に戻したのだった。