「見て聞いたもの」

 「わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。」(ヨハネ第一4:14)

 キリストの証人として、ヨハネは論争やうんざりさせる口論をしなかった。彼は自分の知っていること、自分が見たり、聞いたりしたことを話した。彼はキリストと親しい交わりをし、キリストの教えを聞いて、キリストの立派な奇跡を目撃してきた。ヨハネほどにキリストのご品性の美しさを見ることができた人はほとんどいない。彼にとって暗黒は過ぎ去っていた。彼の上にまことの光が輝いていた。救い主のご生涯と死に関する彼のあかしは、明瞭で力のこもったものであった。救い主に対する愛が豊かにあふれる心から彼は話したので、だれも彼の言葉をとめることはできなかった。(患難から栄光へ下巻259)
 彼は次のように証言することができた。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(ヨハネ第一1:1-3)
 だから誰でも自分の経験を通して、「神がまことであることを、たしかに認め」ることができる(ヨハネ3:33)。……「わたしには助けが必要だった。そしてイエスの内にそれを見出した。あらゆる欠乏は補われ、わたしの魂の飢えは満たされた。……わたしはイエスを信じている。わたしにとって神なる救い主だからである。聖書はわたしの魂にとって神のみ声であると分かったので、わたしは聖書を信じる」と証することができるのである。(教会への証8巻321)
 わたしたちはどのようにして自分で神のいつくしみと愛を知ることができるだろうか。詩篇記者はわたしたちに、聞いて知るようにとも、読んで知るようにとも、信じて知るようにとも言っていない。そうではなく「主の恵みふかきことを味わい知れ」と告げているのである(詩篇34:8)。他の人の言葉に信頼する代わりに、自分で味わいなさい。経験は、試すことによって得た知識である。経験に基づく宗教が今日必要とされている。「主の恵みふかきことを味わい知れ。」(教会への証5巻221)

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