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2017年12月01日

人と向き合う

 振り返ってみても、あまり人と向き合うことはしてこなかった。来る者拒まず、去る者追わず、自分でなんとかできるから大丈夫。

 仕事をしていて、ある人を全否定し、問題の責任を糾弾したことがあった。その時は本気でその人に対し怒りを覚え、諦めようにも諦めきれず、その人を責め続ける日々が続いた。これではダメだと、自分でなんとか改善を試みてはみた。しかし、それほどの結果もでない。組織で仕事をしていて、問題が発生するということは組織全体の問題であり、自分にも責任の一端があった、僕はただそれを人のせいにしていただけであった。そう思い至るまで、その人と何度か言い合いになった。自分が相手に対して思っていたこと、言ったこと、したことが、おもしろいようにすべて自分に返ってきた。相手をどうみるか、どう思うかは、自分のことをどう考えてどうみているのかを現しているかのようだ。

 組織において、すべての問題が、ある個人に由来するものならば、すべての問題を個人が解決することもできると言えると思う。だが、そんなことはできそうもない。僕がなぜその人に対して問題の責任を問おうとしたかは、僕ならそのような問題は起こさない、または解決できるという妄信があったのだと思う。仮に逆の立場ならば、「俺にどうしろというのだ」と叫ぶしか無いのだろう。相手が責任を認められず、反発するのはその人のプライドがあるからだと思っていた。今はこの不毛な紛争をやめ、お互いが歩み寄り、信頼し、協調すれば組織は必ず改善されるだろうと考えられ、自ら歩み寄ることができる。それができていなかったの自分につまらないプライドがあったということだ。

 人が成長するように、組織もまた人と共に成長するのだろう。今までは個人が各々技能を高めて、それが集まれば単純に組織としての能力が高まるものと思っていた。個人の技能ももちろん大事だが、人と人との適切な繋がりがないと能力は十分に発揮されないようだ。それなりの規模の企業ならば、そういう仕組みが完成されているのかもしれないが、小さな会社で人が徐々に増えてくると、組織としての能力が求められるようになるのだろう。組織と共にどうやって成長できるかという興味が今はある。

2016年06月23日

移民政策は反対する

政治経済には詳しくはないが移民政策には反対する。移民政策は日本には必要がない。

 そもそも、少子化問題とか労働力不足とか、そういう問題の前に欧米各国が移民政策をとっているの最大の理由の一つとして、不法移民問題があるはずだ。国家の管理者である政府にとって管理できない人間、不法移民がいることはあってはならない。故に管理可能な正当な移民という仕組みが必要なのだ。なにもせず放っておいても、どんどん増えてしまう移民を正当性を持って受け入れる体制を整える必要があり。不法移民とそうでない移民の差別化し、外交的にも正当な移民だけを歓迎するという対外的な理由が必要である。欧米各国が移民政策が必要になったのは積極的なものではなく、国と国が隣り合う地続きの大陸では必然的なものであるはずなのだが、どうだろうか。そして現在、移民を受け入れている国々では移民政策の機能不全、テロ、差別など深刻な事態に陥っている。移民排斥運動と国境封鎖はセットである。

 欧米の移民政策の良い面だけをみて労働力不足の解消と、正式に国民となった移民たちが出生率を押し上げて少子化問題も改善されたという報告もあり。それなら日本でも導入を検討すべきという論もみられるが、それは短絡的で無責任な考えであると僕は思う。日本の論者が言う移民政策は安く働いてくれる都合のいい労働力がほしいと、それ一点ではないか。つまりは奴隷が欲しいと言っているのと同等であり、移民を道具としか考えていないように思われるのだが、どうだろう。

 移民がいなくても現在の日本には外国人研修生制度というものがあって、これも安い労働力として扱われ悲惨なところが多いように思う。単純労働を研修させてなにを学べるというのだろうか、学べるのは日本語ぐらいであり、日本語をちょっと話せるだけの人を雇うなら日本人のほうがいいのだし、彼らの存在価値は安い労働力というだけしかない。このような形で日本からもワーキングホリデーというスタイルで外国へ安価な単純労働者として渡っている。ワーキングホリデーも外国人研修生も移民もすべて同様で経営者視点からの目先の利益だけを考えた制度というのが僕の意見だ。移民や外国人が幸せになって日本国民も幸せになるような政策ならば、それは賛成であるが、現状に不満があって外国へ渡る、どちらかといえば不幸な人々を受け入れることは日本国民の幸福を増大させるものでは決してない。

 移民政策は一度受け入れるとやめることはできない、外国人研修生など限定的な受け入れはまだ管理可能であるため容認はできる。この制度にはあまりいい印象はないが。研修生本人が自国で働くよりも日本で働くほうがまだいいという現実もあるだろう。不法移民の流入が島国であるためかなり抑制できているのは幸いである。

 世の中でもっともめんどくさいこととは「管理」である。めんどくさいということはコストが掛かるということ。日本のようにそんなに管理しなくても社会規範が保たれ街がきれいなのは世界的に稀である。地理的にも民族的にも単一性を保つ条件が揃った国は日本ぐらいではないだろうか。そのような日本社会の中でも外国人が多く住む街で問題となるのはまずごみ処理や社会的なマナーの問題である。

 多様性が叫ばれる昨今、多様性を受け入れろと移民を勧める者もまた多様性を否定しているということに気がつかない。単一であることもまた多様であることの一様であることを忘れている。民族的多様性はアメリカに任せておけばいいのであって、日本は日本の独自性を以って歩めばいいだけの話。アメリカのマネをしたところで敵うわけもなく。日本の問題は外国に見習って解決するのではなく、自ら考えて解決していかなくてはいけないもののはずなのだが、そういう提案を示してくれる識者を知らない。

 それと、移民難民問題は別である。難民受け入れは人道支援であり、戦争が終わって平和になった時に帰国できるように支えるという国際社会の義務であるものだ。

 また、外国人留学生は積極的に受け入れるべきであると思う。だからと言って国際化の名のもとに英語で授業されては本末転倒だが。欧米の見習うべきところに優秀な留学生が集まる大学があるということがある。優秀な留学生が増えることで治安が悪化することは考え難く、むしろ教育の質が上がり、新たな産業が生まれる人材である。

部分と全体

 リーダーとして全体を見て欲しいと言われるので考えている。全体ってのはあくまで結果であって、そんな風に見える、そんな風なものとして集まった集合体であるはずなのだが。

 テレビ画面のように赤緑青の三原色を点灯させて白色を照らすように、ようは理屈である。全体ってのはコントロールできない。コントロールできるのは個々の部分だけであり、個々の部分を変化させることによって全体がどう見えるのか変化させる事は可能だ。それを全体のコントロールと言うこともできるが、元を辿れば、部分をコントロールしたに過ぎない。部分をコントロールする手段が無ければいけない。画面の色を変える方法を知り画像を描く方法を知らなければいけない。

 実際に現場の管理者としてコントロール可能な手段というのは限られている。コントロールの範囲を拡大し、部分最適をし、結果的な全体最適まで繋がることが全体の改善であり。口先だけで、部分のコントロールよりも、全体をコントロールしてほしいというのは容易い。テレビ画面のリモコンでも操作しているつもりなのだろうか。現場で全体をコントロールするということは全体のすべてをコントロール可能で熟知しているということである。テレビ画面のようにすべてが計画された人工物ならそれも可能だが、人と人が集まる企業であり手づくりの生産工場である。

 それができるなら誰も何も困ることも考える必要も何もない。

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