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2016年06月23日

移民政策は反対する

政治経済には詳しくはないが移民政策には反対する。移民政策は日本には必要がない。

 そもそも、少子化問題とか労働力不足とか、そういう問題の前に欧米各国が移民政策をとっているの最大の理由の一つとして、不法移民問題があるはずだ。国家の管理者である政府にとって管理できない人間、不法移民がいることはあってはならない。故に管理可能な正当な移民という仕組みが必要なのだ。なにもせず放っておいても、どんどん増えてしまう移民を正当性を持って受け入れる体制を整える必要があり。不法移民とそうでない移民の差別化し、外交的にも正当な移民だけを歓迎するという対外的な理由が必要である。欧米各国が移民政策が必要になったのは積極的なものではなく、国と国が隣り合う地続きの大陸では必然的なものであるはずなのだが、どうだろうか。そして現在、移民を受け入れている国々では移民政策の機能不全、テロ、差別など深刻な事態に陥っている。移民排斥運動と国境封鎖はセットである。

 欧米の移民政策の良い面だけをみて労働力不足の解消と、正式に国民となった移民たちが出生率を押し上げて少子化問題も改善されたという報告もあり。それなら日本でも導入を検討すべきという論もみられるが、それは短絡的で無責任な考えであると僕は思う。日本の論者が言う移民政策は安く働いてくれる都合のいい労働力がほしいと、それ一点ではないか。つまりは奴隷が欲しいと言っているのと同等であり、移民を道具としか考えていないように思われるのだが、どうだろう。

 移民がいなくても現在の日本には外国人研修生制度というものがあって、これも安い労働力として扱われ悲惨なところが多いように思う。単純労働を研修させてなにを学べるというのだろうか、学べるのは日本語ぐらいであり、日本語をちょっと話せるだけの人を雇うなら日本人のほうがいいのだし、彼らの存在価値は安い労働力というだけしかない。このような形で日本からもワーキングホリデーというスタイルで外国へ安価な単純労働者として渡っている。ワーキングホリデーも外国人研修生も移民もすべて同様で経営者視点からの目先の利益だけを考えた制度というのが僕の意見だ。移民や外国人が幸せになって日本国民も幸せになるような政策ならば、それは賛成であるが、現状に不満があって外国へ渡る、どちらかといえば不幸な人々を受け入れることは日本国民の幸福を増大させるものでは決してない。

 移民政策は一度受け入れるとやめることはできない、外国人研修生など限定的な受け入れはまだ管理可能であるため容認はできる。この制度にはあまりいい印象はないが。研修生本人が自国で働くよりも日本で働くほうがまだいいという現実もあるだろう。不法移民の流入が島国であるためかなり抑制できているのは幸いである。

 世の中でもっともめんどくさいこととは「管理」である。めんどくさいということはコストが掛かるということ。日本のようにそんなに管理しなくても社会規範が保たれ街がきれいなのは世界的に稀である。地理的にも民族的にも単一性を保つ条件が揃った国は日本ぐらいではないだろうか。そのような日本社会の中でも外国人が多く住む街で問題となるのはまずごみ処理や社会的なマナーの問題である。

 多様性が叫ばれる昨今、多様性を受け入れろと移民を勧める者もまた多様性を否定しているということに気がつかない。単一であることもまた多様であることの一様であることを忘れている。民族的多様性はアメリカに任せておけばいいのであって、日本は日本の独自性を以って歩めばいいだけの話。アメリカのマネをしたところで敵うわけもなく。日本の問題は外国に見習って解決するのではなく、自ら考えて解決していかなくてはいけないもののはずなのだが、そういう提案を示してくれる識者を知らない。

 それと、移民難民問題は別である。難民受け入れは人道支援であり、戦争が終わって平和になった時に帰国できるように支えるという国際社会の義務であるものだ。

 また、外国人留学生は積極的に受け入れるべきであると思う。だからと言って国際化の名のもとに英語で授業されては本末転倒だが。欧米の見習うべきところに優秀な留学生が集まる大学があるということがある。優秀な留学生が増えることで治安が悪化することは考え難く、むしろ教育の質が上がり、新たな産業が生まれる人材である。

部分と全体

 リーダーとして全体を見て欲しいと言われるので考えている。全体ってのはあくまで結果であって、そんな風に見える、そんな風なものとして集まった集合体であるはずなのだが。

 テレビ画面のように赤緑青の三原色を点灯させて白色を照らすように、ようは理屈である。全体ってのはコントロールできない。コントロールできるのは個々の部分だけであり、個々の部分を変化させることによって全体がどう見えるのか変化させる事は可能だ。それを全体のコントロールと言うこともできるが、元を辿れば、部分をコントロールしたに過ぎない。部分をコントロールする手段が無ければいけない。画面の色を変える方法を知り画像を描く方法を知らなければいけない。

 実際に現場の管理者としてコントロール可能な手段というのは限られている。コントロールの範囲を拡大し、部分最適をし、結果的な全体最適まで繋がることが全体の改善であり。口先だけで、部分のコントロールよりも、全体をコントロールしてほしいというのは容易い。テレビ画面のリモコンでも操作しているつもりなのだろうか。現場で全体をコントロールするということは全体のすべてをコントロール可能で熟知しているということである。テレビ画面のようにすべてが計画された人工物ならそれも可能だが、人と人が集まる企業であり手づくりの生産工場である。

 それができるなら誰も何も困ることも考える必要も何もない。

2016年06月11日

仕事と人生

 工場の運営、人事等に関わっていると仕事と人生について考える。

 新卒採用でも中途採用でも今時の就職活動には面接と履歴書というものがついてまわるが、その内容は美辞麗句に彩られキラキラとしている。縁も所縁もない人が働きたいですと言って突然やってくるのは不思議だ。就職活動ってやつは「内定ゲーム」と言っていいような無節操な活動で、内定が目的であって、後々続く人生の事はそれ程考えられていないものだから、結局内定もらって働きだしても続かず、皆様にご迷惑をお掛けして去っていくことになる。20代のまだまだ定まっていない人はいろいろやってみて迷惑をかけながら学んでいけばいいと思うが。人生を自分で選択していかなければいけない。その自由さが人の生き方を複雑化させているところがある。ある一つのものを選択し決断するということは、他の可能性を捨てるということでもある。その選択の可能性をできるだけ先延ばし幅広くするということが日本の教育の失敗であるような気がする。今になって思うのは選択は早い者勝ちであるということだ。もし、働きたいと思ってる会社があるとして、それが大学の就活の時期になって突然、そう思ったのか。もしくは小さい頃からでも漠然と考えてコツコツと自らの専門性を高めて目指して来た業界や会社なのかでは仕事への適正という意味では雲泥の差が存在し、前者は専門性が高い後者に太刀打ちはできない。大学で学んだ事とはまったく違う会社へエントリーすることはよくあるようだ。でも、それは仮にであっても身に付けてきた自分の存在価値を捨てるということではないだろうか。教育は投資であって回収し、次世代へ再投資するためのものであるはずなのだが、それを安々と捨て去ることがまかり通っている。大学全入時代でもはや投資であるとかそういう意識もなくて「あー楽しかった」と消費されて終わってしまっているんじゃないだろうか。こういうことは奨学金問題とも繋がっているだろう。自分に投資した分を回収することすら難しいという問題なのだ。

 仕事に就いて働く、それは本来ありがたいことなのだが、気持よく働ける状況を作るというのは非常に難しいことだと実感している。中間管理職として経営陣と社員との間に入って色々聞いていると、お互いがお互いを貶し合っているような報われない状況というのがある。経営陣がギブアンドテイクなんだからギブしないといけないと言えば、あなた方は何をギブしているのでしょうかと僕は疑問に思う。今の給料以上の事を求めるならまず、ギブするのがギブアンドテイクなのではないだろうか。いや、社員が待遇改善を訴えているのだから、まず社員がギブするべきだと。いやいや、待遇改善は経営陣の仕事でしょうと、そうやって話は平行線を辿って結局なにも変わらないままというのが多いような。結局は皆、経営陣も社員も受動的で自らやって変えてみせるということまではしないのだ。経営陣は古い会社で何十年もそれでやってきた頭の固い人たちでもあるし、先行投資で社員の待遇改善というのは余程自信と決断がないとできないものだ。社員は目の前の仕事をやるというのが役割であって、そういうことは経営陣が決めることだと謙虚に考えている。本音としては余計な仕事はしたくないということだが。お互いが自己保身を優先して状況が打開できないというのは企業の問題として広くありそうな気がする。そこらへんを上手いこと調整していい方向へ持っていくのが中間管理職の腕の見せ所なのだろうが、果たして状況は改善されるだろうか。そういえば僕は中間管理職としてのテイクを一切貰っていない。

 就職先に縁も所縁もない人や大学で学んだことととは関係のない人に共通して言えることは人生上の出来事、ライフイベントの「一貫性のない人」というのがある。ライフイベントの道筋があっちへ行ったりこっちへ行ったり断絶しているのである。どこへ向かっているのかわからない人生。それは安定もせず、先は不安でなかなかスリリングではある。その対局にもっとも一貫性のある人として一般的なのは進学の時も就職の時も結婚の時も地元から出ない人であると思う。彼らの人生の一貫性は社会的に信頼に値するもので、それこそが社会の継続的な営みを可能としていると最近は思うのだ。一貫性のない人でも就職先で幾つかのライフイベントを経てその地に定着していくこともあるだろうけれど、少数派であろう。ライフイベントを一貫性のあるもにするために、地元に帰る人がいたりする。