単純所持処罰は何を守り、何を侵すのか

いままで、情報の単純所持禁止は以下の点で望ましくないと書いてきた。

今回は、単純所持処罰は、権利の視点から、あと刑罰法規として、問題じゃないの?という話を書いてみる。

児童ポルノが出回ることは、どのような人権を侵害するか

児ポ法はその第1条で児童の権利を守ることを目的として謳っている。児童ポルノが出回ることは、どのような人権侵害であるか。虐待や売買春ではない。それは撮影の際には起こるかも知れないが、撮影された映像が出回ることそのものは虐待でも売買春でもない。

被害者の立場になれば分かるだろうか。自分の恥ずかしい映像が配布される。公にならば名誉毀損であり刑法犯だ。でも児ポ法は私的にでも提供することを禁じているので、名誉の侵害ではない*1。では、「恥ずかしい映像を配布されない権利」は人権にあっただろうか。そんな特殊な権利は聞いたことがないが、それを含む人権がある。肖像権である。

ウィキペディアより。肖像権のうち、人格権:

被写体としての権利でその被写体自身、もしくは所有者の許可なく撮影、描写、公開されない権利。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%96%E5%83%8F%E6%A8%A9

児童ポルノを配布することは、被写体となった人の肖像権の侵害である。これに異論はないと思う。

肖像権は人権であり、その侵害に対しては損害賠償を請求することができる。私人間の権利侵害は普通、こうして処理される。

児ポ法児童ポルノの提供を問題としているのは、事後の損害賠償では償えないほどの害を被写体に与えると考えているからである。つまり、禁止して防がなければならない(=罪と刑罰を設定しなければならない)と考えているからだ。

肖像権侵害と単純所持処罰

児ポ法の肝は、ひとことで言うと、肖像権侵害を犯罪とすることである。そして現行児ポ法は、「児童ポルノ」による肖像権侵害を犯罪と規定している。さらに、肖像権の範囲を超えて、児童ポルノの「提供」も禁止している。(提供は公開とは違うので、肖像権の範囲にないことに注意。)

今回の児ポ法改正の動きでは、これに加えて単純所持を犯罪としようとしている。が、ここで忘れてはならないこと。それは、単純所持自体は肖像権侵害ではないことである。また、「誰かに見られるのが嫌だ」という被害者の気持ちを理由に単純所持処罰を正当化する議論もあるが、自分の写真がそれを所持している「誰かに見られる」こと自体は―もちろんそれが嫌だという気持ちはとてもよく分かるけれど―人権という視点からは、これも肖像権侵害ではない。

上の肖像権の説明をもう一度見て、単純所持も、単に見られることも、肖像権を侵害していないことを確認してほしい。

つまり、単純所持処罰そのものは、人権保護の観点から正当化できない。写真に限らず何らかのものを所持し、それを見ることは、これは所持している側の人権、財産権の範囲にある。私はさらに、情報保持権の範囲にある、と言い添えたい*2

したがって、単純所持処罰は、それ自体は何ら人権を守るものではなく、逆に人権を制限するものである。

他の犯罪と比べてみる

(公開までいかなくても)提供によって肖像権が侵害され、それを防ぐために現行児ポ法が提供を犯罪としている、と考えてみよう。提供しなければ人権侵害は起きない。だから提供することが危害を与えることであり、それが犯罪である。提供をしないでただ単に所持していることは、この犯罪に関してはせいぜい犯罪予備にしかあたらない。しかも提供が目的でないのだから(それを単純所持と呼ぶ)、犯罪予備にもならない。

比べてみてほしい。傷害罪には予備罪はない。暴行罪にもない。飲料水への毒物混入罪にだってない。誘拐だって、営利目的でなければ予備罪はない。強姦罪にだって予備罪はない。刑法で予備罪があるのは、内乱、外患誘致、放火、殺人、強盗、通貨偽造ぐらいで、極めて重い罪だけだ。

児童ポルノの他者への提供は、強姦よりも、暴行よりも、誘拐よりも、罪が重いのか?

単純所持処罰は、人権の制限であり、情報化社会において個人を不安に陥れ、その情報活動を萎縮させ、情報化社会の発展を阻害し、さらに公権力によるプライバシー侵害の可能性を増す。単純所持処罰による肖像権侵害の防止は、これらすべての不利益を超える利益を与えると言えるだろうか?

刑罰法規の原則に立ち戻ってみてはどうか

刑罰法規の原則に戻って考えてみてほしい。

原則その1。他者に直接に危害を加える行為だけが犯罪とされるべきであること。極めて重大な事柄に関してだけ、過失罪(致死など)、予備罪(殺人など)や陰謀罪(国家転覆など)が設定されること。単純所持は、他者に直接に危害を加えるか? 肖像権侵害は、予備罪を設定できるほど重大な罪か?

原則その2。そのような犯罪を防ぐための刑罰をさらに設けるべきではないということ。それは自由権の侵害であり、国民はそういう刑罰が設けられないように目を光らせていなくてはならない。人々の自由権と、公権力の警察権の間に引かれるのは、他人や社会に直接に危害を与えるという判断基準による細い線である*3。その範囲で犯罪を抑止し、摘発するのが警察の役割であり、我々はそれに税金を払っているのだ。それができないなら警察の能力が不十分ということである。警察がサイバー部門を創設・強化するために、情報工学情報科学の大卒・大学院卒の修士や博士を大量に雇用した、という話を聞いたことがあるだろうか? 被害者に被害を与えるのは、児童ポルノの頒布や提供であって、所持ではない。頒布や提供が止められないなら、警察力を強化するのが妥当であり、法改正によって犯罪の範囲を広げて人々の自由権を侵害すべきではない。

このふたつの原則を破るような立法の動きは、児ポ法改正だけではない。共謀罪法案もそうだったし、人権擁護法案もそうだ。青少年ネット規制もそう。ワンパターンとも言えるほど同じ枠組みを使ってくる。

  • 人権侵害(あるいは社会への害、青少年への悪影響)を未然に防ぐために*4
  • 刑罰を導入して国民の自由を制限する

という枠組み。日本人は治安維持法で苦汁をなめたことをもう忘れたのだろうか? ニーメラーの詩など、引用するまでもない。

いま我々はどこにいるのか

いま我々がどういう一線から退こうとしているのか、それを自覚すべきだと思う。

児ポ法改正を認め、「何かを未然に防ぐために、とある情報の単純所持を禁止する」ことが可能だと我々が認めてしまったとしよう。次にもし「ポルノ画像の氾濫が止まらない、猥褻物頒布罪を防ぐことができない」という理由で猥褻画像の所持が禁止されようとしたら、それに反論できるだろうか。刑法175条を根拠にすれば、猥褻画像が絵画であろうが写真であろうが関係なく、どちらも規制できる。また、「著作物の違法コピーは、そういうコピーを所有している人がいるから繰り返されるのだ」という理由による、著作者の意に反する著作物の所持禁止に反論できるだろうか。著作権法違反は今は親告罪だが、非親告罪化しようという動きが去年あたりから活発である。あるいは、「差別を助長するような文書を所持してはいけない」という立法に反論できるだろうか。

情報の単純所持の禁止は、事実上、個人が何であれ情報を所持することを禁止することに等しい*5。一歩引いてしまったら、もうそれで個人は、情報技術が与えてくれたこの有用な力をすべて失ってしまう。情報を所持できなければ情報の発信もできない。個人は再び、新聞を読み、テレビの前に座って、限られた情報を与えられるだけの存在に逆戻りする。

表現の自由だけではダメなのだ。情報を取得する自由、保持する自由がなければ、表現の自由が意図するところ*6は守られない。

長くなってしまったので、具体的な解決策についてはまたこの次に。ごめんなさい。

*1:名誉毀損はそもそも人権侵害としてではなく、公の名誉に対する罪として設定されているので、「映像の配布によって名誉を侵害されない権利」が人権にあるわけではないが。

*2:情報の単純所持を違法とすることの意味―児ポ法について - DMZ: 非武装地帯

*3:もちろん原則には例外がある。直接危害を加えていないが、その恐れが非常に高い場合には、それを禁止することが正当化される。例えばスピード違反運転や、拳銃の所持など。しかし画像の所持はどうか?

*4:しかも児ポ法人権擁護法案も、それが人権のうちのどの権利を守るかが書いていない。なぜだろうか?

*5:情報の単純所持を違法とすることの意味―児ポ法について - DMZ: 非武装地帯

*6:ミルが「自由論」でどのように論理を展開しているかを見てほしい。