昨日,というか,もう一昨日になるが,
6月18日になったとき,その日付に何か意味があったような気がした。朝から,日付を意識するたびごとに「今日って,なんかの日だったような気がするなぁ」と漠然と思うのだけれど,それが何かはわからない。
何となく,だけれど,誰かの誕生日のような気がする。しかし考えても具体的に6月18日が誕生日という人を思い出せない。なのでわたしの誕生月が6月であることと他の月の18日生まれの人が多いことから来る錯覚なんだろうと思うことにした。
何となく腑に落ちない。
夜,家に帰って,かなまるの日記を見て漸く合点がいった。大学の創立記念日だ。
一日中考えていても思い出せなかったのはちょっとショックだったけれど,仕方ないだろう。創立記念日は休講だったけれど,その恩恵を受けたことが何度あっただろうか。休講であろうがなかろうが,どうせわたしは自主休講。
それでは創立記念日を覚えることは困難か。在学中にちょうど100周年を迎えた割には愛がない。
学校の創立記念日といえば,
小中学生ぐらいのころか,「創立記念日で学校が休み」という響きに憧れたこともあった。それは結局大学に入るまで叶わなかった上,大学は上述の通りそれほどの有り難みはなかった。
小学校・中学校については,創立記念日があったのかどうかも知らない。小学校には昭和40年代後半の日付が入った「創立百周年記念」の石碑が花壇にあったので,それこそ明治初期に小学校が作られた時に設置されたのだろう。中学校では,在学中に何かの式典を行ったが,あれは,学校の何周年ではなくて,市政○十周年記念の類だったような気もする。学校の沿革も記憶にない。
高校には一応創立記念日が設定されていた。休みにもならなかったし,行事もなかったので(区切りの良い数に当たっていなかったからか)覚えていないが,同窓会名簿など作っていたようだ。確か10月か11月ごろで,設立が正式に決定した日を創立記念日と定めていたのだったと思う。誰か(校長だろうか)からそのような説明を聞いた気がする。
高校ともなると,学校によっては創立記念日が休みになるところもあり,別の学校に通う友人から休みと聞くとうらやましかった。できることなら休みが多い方がいいと思っていた生徒だったので。高校時代は1日も休みませんでしたが(皆勤ではないけどね)。今じゃ考えられない。学校が遠かったし自力で通えなかったし何より朝起きるのが時間ぎりぎりだったので,体調をうだうだと考慮する間もなくとにかく「起きる→学校行く」を脊髄反射で行っていたんだろうな。毎日面倒だとは思っていたけどな。
高校生にも有休(?)欲しいよなあ。欠席扱いにならないお休み。出席日数不足による留年の域にはかなりの日数を休まなくてはならないので,わざわざ有休設定をする必要はない,ということもあるんだろうけど。
欠席したからってお給料から引かれるわけでもないんだから(そもそも授業料その他を払っているのはこっちだ)もう少しさぼっても良かったかも。会社員になって事前申請の有休取得すら(当然の権利なのに)なんとなく気が引けがちになるのは,広い意味での学生時代に「体調不良等の出席不可能な理由がない限り休むものではない」という感覚が培われていることも一つの要因ではあるまいか。
でも,さぼりで休んだところで,家にいれば家族が理由を聞いたり気を揉んだりするだろうしなあ。外で遊びたいとは思わなかったからね。
で,何の話かよく分からなくなりましたが,そういえばどうして6月18日が創立記念日なんだっけ。それこそ100周年記念でなんかの記事を載っけたに違いないが,全く覚えていない。(1:59)
かなまるには文句を言われるが一言書かせて頂こう(酔ってるし)。
あれは何ですか(以下#24ネタばれが続きます)。その場でいきなりって,アリですか。浅葱色だか白だか知りませんけど,先に死に装束を整えたりしないんですか。いやいや,そんな余裕はないのかもしれませぬ(敵に囲まれていて一刻でも早く腹を切らないと首をはねられるという状況でもないんだけどね。しかしまぁ着替えはナシかもしれんわな)。しかし,しかしですよ。せめて介錯ぐらいしてやれよ……。わたしは人体には(人体にも)疎いので何とも言えないけどさ,自分で刀逆手に持って腹斬るだけで死のうと思ったら,けっこうしんどいと思うんだけど。失血で意識失うまでだけとはいえ,ねぇ。
そういう殺伐とした時代であるってことなんかなぁ。切腹の作法はどうした。侍の美学はどうした。介錯もつけてやらんアンタこそ士道にあるまじきと切腹を申しつけたい。
この先こんなんが続いていくのは,しんどいっすね。一方で一部腐女子には垂涎モノなカットも多くて,嬉しいような困ったような。
最初15分ほど見ていなかったのですが,今日は斎藤さんお休みだったっぽい(集合しているシーンでも見かけなかった)。わざわざタクシーに乗ったわたくし,ちょっぴりがっかり。
夕方5時過ぎ,所持金が110円になった。
それより後の買い物。手ぬぐい840円,晴雨兼用折りたたみ傘約8500円,晩ご飯・デザート・ビール等1045円,タクシー乗車賃660円。
100円玉と5円玉と1円玉しか持っていなくてこれだけ買い物ができるカード社会万歳。手ぬぐいはデビットカード。傘はクレジットカード。晩ご飯類はスーパーで,これもクレジットカードだけれど3000円以下だったかはサインレスになっている。現金で払うよりも(お財布の中をごそごそしない分)早いぐらいかもしれなかった。タクシーも,最近ほとんどクレジットカードが使用できるようになった。長らくタクシーは盲点だったのでありがたい。
カード使えなかったら何の迷いもなく歩いて帰ったに違いないがね。そこまでして本放送から見たかったのか。
無駄遣いは程々に。
だいたいからして,購入を決意してから実際に買うまでに1年かかるのはザラだ。
その一方で衝動買いの癖も持っているけれど,強く欲しいと思っているものに限って,なかなか買えない。生きていく為に必要なものではないので急がないということもあるだろう。欲しいからこそ,妥協できなくなっていくのかもしれない。CDラジカセが壊れてからコンポを買うまでの期間も長かった。Macintoshは一年経たずに買ったと言ってもいいかな(欲しいと思い始めてからはかなりかかっているけれど)。
ゆかたも同様の回路にはまりつつある。昨日も今日も,こんどうさんがつき合ってくださるのをいいことにゆかた売り場をハシゴしまくり。しかし,陳列の商品群にちろと視線を走らせはするものの,その態度たるや,本気で買おうと思っているとは到底信じがたい。ふむ。
毎年ゆかたを買ってしまうという人も世の中にはいるようだし,衣料品なんてものがそもそも「まだ着られるから」と言っていたら何年も新しい物を買うことはないままになる,つまりは必要ではないのについ新しく購入している類のものではある。
今ゆかたが1枚も無いわけではないということ。ほいほい毎年のように買う物とは思っていないということ。で,どうせ買うならと,そこそこ気に入った物を見つけても,「もっといいのがあるかもしれん」とか「コストパフォーマンスがもう一つ」とか,難癖つけて購入しないままになっている。
なんつぅか,空腹感もピークを越えるとあまり感じなくなる(飢えるレベルになるとまだ別だろう。幸いそういった経験はせずに今ままでやってこれた)のと同じで,ゆかた欲しい熱もピークを過ぎて,なかもうどうでもいいというか,「買わない」ことを維持しようというフェーズに(意識下で)入っているような気がする。
大きい買い物って,タイミングですね。
もう少し安ければ(5千円程度),「本命は探し続けるけれども,これはこれでかわいいから買っておこう」ということもできるんだけどね。
最近毎日のようにゆかたのことしか書いていないのが,ちょっとよくないな。それだけで生きているわけじゃないんだが。
明日は10時から予定有り。自宅から持っていかなければならぬものもある。時間ともども,忘れないようにしなければ。
そうそう。9月の連休にでも,カナダの東の方に行こうかという気になっております。たぶん一人で。今年のカレンダー,ちょっとがんばればかなり大型連休になる。同じ事を考えている人が多いだろうから早い者勝ちでしょうけれど。その間のスケジュールをぽっかりけられるというのはさすがに考えにくいし。
冗談で成田→バンコク→カナダ(のどこの空港?)→成田という話も出ていた。バンコクでチケット買った方が(連休関係ないから)安いだろうし。その場合は,成田発バンコク往復と,バンコク発成田経由カナダ行き往復を買うことになるんかな。そうすると,成田発バンコク往復の帰りが余ることになるのか。片道切符ってあるのかな。
カナダも東海岸に近いとなると,東京から見たときには北北西ぐらいになるんだろうか。地球は丸いがよくわからん。取りあえず遠そうだ。
またサーバの容量がいっぱいになったので,こっそり写真を数枚削除した。サーバとローカルの同期がとれなくなってきた。ローカルのファイルの場所を動かさないと何を削除したか忘れてしまいそうだ。(21:27)