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四丁目でCan蛙

2012-02-05

「東電原発勤務から内科医へ」と「メディアの病」

11:39 | 「東電原発勤務から内科医へ」と「メディアの病」を含むブックマーク 「東電原発勤務から内科医へ」と「メディアの病」のブックマークコメント

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立春の昨日、日中、日差しがあるとサンルームの中は20度くらいになります。

午前中は隣の父を誘って、夫の車で千里阪急ホテルの大阪ガスの展示場へ、エネファームの説明を聞きに出かけました。

脱原発には太陽光発電か、エネファーム・「ガスから取り出した水素と空気中の酸素を化学反応させて発電し、このとき発生する熱でお湯もつくります。化石燃料を燃やす従来のエネルギーシステムに比べ、87%と高い総合エネルギー効率で発電・給湯。高い省エネ性能が特徴です」。考え方はパネルを屋根に張るよりはコチラが面白そうなんですが、設置する機械本体と貯湯タンクがかなりの大きさで、我が家で設置するには家から少し離れた庭先に・・・まだまだ分からないことも多いので、もうしばらく考えてみますで帰ってきました。

帰ったら、息子が2色パスタを用意してくれました。淡いピンクは辛子明太子,薄い若草色はアボカドソース。こちらは初体験。シチリア白ワイン西利のたくあんをピクルス代わりに。美味しい昼食でした。


「らいるの日々」さんのブログ(2月4日)で紹介された新聞記事(熊本日日新聞)から引用です。「ブログを書いている人は、福島第二原発に5年、本店原子力技術課安全グループに2年勤務した後、熊本で開業医をしている小野俊一さんという人です。事故後、福島原発放射能の影響などで積極的に発言をしているようです。こんなお医者さんがいたのですね」と、らいるさんも書いています。小野さんのブログ「院長の独り言」はアクセス数が140万の人気サイトとか。

引用記事の後半部分から:(記事全文はコチラで:http://blog.rairu.com/

高額な機器、悪い熱効率、廃棄物処理も困るーー原発こそ高コストだ

放射能汚染 数十万年にも 


東電原発技術者から内科医に 小野俊一さん(熊本市


前略


福島県議会は県内全10基を廃炉にする請願を採択。一方で最稼働を求める声もありますが>

福島第1〜4号機を再稼働させる方法はない。5,6号機の建屋には穴が開いている。水素爆発の恐れがあるため故意に開けているわけだ。福島第二の4基も塩害でブレーカーが落ちており廃炉にせざるを得ないと思う。

そもそも原子炉に頼ってはならない。セシウム137の半減期は30年で、10キロの稲わらが100万ベクレルなら、1ベクレルに低下するのに600年かかる。プルトニウムに至っては半減期2万4000年で、地層処分したとしても数10万年を要す。今から数10万年前といえばネアンデルタール人の時代。それほど気が遠くなるほど長く汚染が続く。


政府の公式発表ですら、広島原爆の168個分のセシウムが放出された。文科省の航空機モニタリングを見れば、高濃度の汚染区域が広範囲に広がっている。原発内の放射線管理区分を当てはめれば、全面マスクが必要な地域すらある。放射能に県境はない。県外でも健康調査すべきだ。


<瓦礫処理に難色を示す自治体が多いようです>

汚染されたガレキを焼却すれば体積が減り、濃縮されたセシウムが焼却灰にくっつく。「焼却炉のバグフィルターでセシウムを除去できる」という見解があるが、フィルターの目は粗く、サッカーゴールネット野球の球を捕れというに等しい。日本列島全体を汚染しないよう別の対策を考えるべきだ。

久しぶりの「内田樹の研究室」ブログの更新です。

フランスの雑誌 Zoom Japon から「日本のメディアについて」寄稿を求められた。 フランス人に日本のメディアの劣化の病態とその由来について説明する仕事」だそうですが、とても面白い内容です。

生きているということは相矛盾するものを抱えていつも揺らいでいること。社会制度も、そういう意味では同じだという。

生き延びるためには、単一の割り切った存在というのは、危機の場合適応できなければそれで終わり。

複雑、柔軟、いろんな要素を抱えていれば、対応可能で生き延びる可能性も出てくるということ。それはメディアでも同じと。

勝手に端折って一部のみ引用です:全文はコチラ:「メディアの病について」:http://blog.tatsuru.com/

生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。社会制度もその点では生物と変わらない。変化に応じられるためには複雑な構成を保っていなければならない。

メディアの成熟度にも私は人間と同じ基準をあてはめて考えている。その基準に照らすならば、日本のメディアの成熟度は低い。


全国紙は「立派なこと」「政治的に正しいこと」「誰からも文句をつけられそうもないこと」だけを選択的に報道し、テレビと週刊誌は「どうでもいいこと」「言わない方がいいこと」「人を怒らせること」だけを選択的に報道している。メディアの仕事が「分業」されているのだ。それがメディアの劣化を招いているのだが、そのことにメディアの送り手たちは気づいていない。



メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。


私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。

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