「小黒坂の猪」−井伏鱒二−

canoe-ken2005-05-28

突然ですが「物事を深く狭く掘り下げるタイプ」か「広く浅く掘るタイプ」のどちらかと言えば、私はそのどちらでもなくて、昔、友達に指摘された言葉を使うなら、「あるきっかけがあって地面に穴を掘ったら、そこからもぐらのように地下2mくらいの場所を掘り続けている」という感じ。しかも本当に適当に偶然に頼って掘っているので、まったく体系的な把握ができないし、ときどき自分が掘った穴に戻ってしまったりする。

本について言えば、最近、「どんな本を読んでいるか?」という質問に対して、「阿佐ヶ谷文士と鎌倉文士」と答えているのだけれど、それも、たまたまお店で小沼丹と手に取ったのがきっかけで、その小沼丹から井伏鱒二を再読し、そのついでで木山捷平上林暁、外村繁、青柳瑞穂と辿って見ただけで、それぞれの作家が文学史の中でどのように評価されているのか、どのような位置にいるのか、なんてことはぜんぜん分からない。そもそも阿佐ヶ谷文士と言われる人々をうまく説明もできない。なので、その後に「例えば、井伏鱒二とか」なんて言ってしまうのだが、話し相手との共通認識は「黒い雨」と「山椒魚」しかなく、しかも私は「黒い雨」を読んでいるわけでもなく、「・・・・」となってしまう。かといって、「阿佐ヶ谷文士」というキーワードに対して、「私小説がどうたらこうたら」とか「私小説の作家では○○が好きだ」なんて言われてもこちらとしては困ってしまうわけで・・・・。
10年くらい前、バイト先の友達から「どんな音楽を聴いてる?」という質問に対して、つい「ピチカート・ファイブとかフリッパーズ・ギターとか」と答えると、たいてい「オザケンね」という答えをされて困ってしまったのを思い出す。かといって、当時渋谷系と言われていた人たちや、その元ネタのミュージシャンなどを挙げられてもわからなくて困る。こちらは単に、大滝詠一から適当に辿って行ってるだけなんだから。

音楽や本などを含めて、趣味の話をするのは難しい。思い入れが接し方がそれぞれ違うからねぇ。個人的なことなので詳しくは書かないけれど、もともとフリッパーズ・ギターが好きだったということはあるけれど、もし小沢健二が、1992年に「犬キャラ」を出して1993年に「Life」を出していたら、小沢健二に対して思い入れは全然違っていたと今となっては思う。もしかしたらまったく聞いてなかったかもしれない、とさえ思う。

今日、二子玉川多摩川河川敷で行われた「王子様(ozaken)ピクニック」で、オザケンの曲に合わせて、歌いながら踊っている人を見ながら、そしてときどき一緒に踊りながら、ここにいる人はこれまでのどんな時に小沢健二の曲を聴いていたのだろうか、全員がそれぞれ違うのだろうなぁ、なんてことをそんな風に考えたりしてたわけですね。いや、ホント言えば、オザケンとかどうでもよくて、晴れた日に多摩川の河川敷という野外で、大音量で音楽聞きながら、シートの上に寝ころんだり、お菓子食べたり、フリスビーしたり、川沿いを歩いたり、飛行船を見ながら煙草をふかしたり・・・・してる、それだけでいい気分でした。